データが導く誠実なツーリズム。EU観光業が探究する「透明性」と「共通言語」

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ヨーロッパのツーリズム産業はいま、透明性と信頼性の再構築という新たな局面を迎えている。気候危機やオーバーツーリズムへの懸念が高まるなか、旅行の「持続可能性」をどう証明するか。その問いに、業界全体が直面している。

EUでは、企業が「環境に優しい」「持続可能」と抽象的な主張を続けることを防ぐために、その科学的根拠と透明性を義務づける法整備が進んできた。その象徴が「グリーンクレーム指令(Green Claims Directive)」である。

しかし2025年6月、EUはこの指令の突然の撤回を発表。事業者の間には、規制緩和への安堵と、透明性の基準を失う不安が同時に広がった。

そんな制度の揺らぎの中、観光業界の新たな動きを牽引しているのが、英国のヘンリー王子が設立したトラバリスト(Travalyst)だ。Google、Booking.com、Skyscannerなど主要オンライン旅行代理店とと連携し、宿泊や航空といった旅行分野のサステナビリティ情報を「共通の言語」と「信頼できるデータ」で可視化する仕組みづくりを進めている。

今回は、そのトラバリストで政策・コンプライアンス部門を率いるケース・ヤン・ブーネン(Kees-Jan Boonen)氏に取材した。

話者プロフィール:Kees Jan Boonen(ケース・ヤン・ボーネン)氏


Travalyst政策・渉外部門責任者(Head of Policy, Advocacy and Compliance)。テクノロジーおよび旅行業界における政府渉外および公共政策の専門家。欧州とアジア太平洋地域での豊富な経験を持ち、特に観光分野の持続可能性に関する規制や政策提言に注力している。過去にはBooking.com にて「Travel Sustainable Program」の責任者およびアジア太平洋地域公共政策統括(Head of Public Affairs, APAC)、アジア旅行・テクノロジー業界協会(ATTIA)副会長、EU-ASEANビジネス評議会(EU-ASEAN Business Council)監督委員会メンバーなどを歴任。

ツーリズムに必要なのは、6つの“道しるべ”

オーバーツーリズムや環境政策などで揺れる旅行業界が、今後より良い方向に進むために必要とされることは何か。ケース・ヤン・ブーネン氏は、その答えを「6つの道しるべ」として語る。

1. 共通の言語を持つこと

サステナビリティの分野では、言葉の定義や指標の違いが混乱を生む。ブーネン氏はまず、「共通の言語」を持つことが出発点だと指摘する。

「『カーボンニュートラル』や『エシカルツーリズム』といった言葉の意味がばらばらでは、誰も同じ方向を向けません。Travalystでは、CO2排出、水使用、再生可能エネルギー比率といった要素を共通のフレームワークを用いて、信頼できるデータの収集・提示をしています。これにより、企業・地域・旅行者が“比較可能な真実”を共有できるのです」

2. データの信頼性を高めること

次に求められるのは、データそのものの信頼性だ。測定や報告の方法が異なれば、同じ数値でも意味が変わってしまう。だからこそ、特に宿泊施設プロバイダーの認証に関しては、新しいEU規制(グリーン移行指令 (ECGT)のための消費者権限強化)に規定されているように、第三者による検証が不可欠だとブーネン氏は強調する。

グリーン・クレーム指令の交渉は中座しているが、グリーン移行のための消費者エンパワーメント指令(ECGT)が2026年9月に発効する。この指令は、欧州の消費者にサステナビリティに関する主張を行う企業に科学的根拠の提示を義務付け、曖昧な主張を禁止するものであり、罰則ではなく信頼の構築策として捉えるべきものだ。Travalystは外部監査機関との連携を強化し、業界として規制に先んじるよう取り組んでいる。

3. データを行動に結びつけること

「フライト検索画面で、トラベルインパクトモデル(TIM)を用いてCO2e排出量を明確に表示する取り組みはその一例です。『人々が理解できるデータ』は、意図と行動を繋ぐ架け橋です。CO2e情報は、私たちの複数のプラットフォーム全体において1,800億回以上のフライト検索で表示されています。」

データは、ただ蓄積するだけでは意味を持たない。人々の意思決定を変える形で提示されてこそ、初めて力を発揮するものだ。ブーネン氏は、数字の提示だけではなく、『この選択が何を変えるのか』を直感的に理解できるようにすることが大切だと語った。

2025年6月に開催されたロンドン・クライメート・アクションウィークにて。

2025年6月に開催されたロンドン・クライメート・アクションウィークにて。一番左がブーネン氏。

4. 中小事業者を取り残さないこと

持続可能な観光の基盤を支えているのは、世界中に点在する中小事業者だ。しかし、データ収集や報告に割ける人員も資金も限られている。Travalystは、そうした事業者の参加を支える仕組みづくりを進めている。

「中小規模のホテルや地域オペレーターを取り残してはいけません。Travalystでは、簡易データ登録や学習モジュールを備えたオープンプラットフォームを整備しています。EUのTourism Transition Pathwayでも、中小事業者の支援と資金アクセス改善が重点テーマとされています。すべての人を含める仕組みこそが、持続可能な観光の真の基盤なのです」

5. 協調によるインパクトを生み出すこと

サステナビリティは競争の領域ではなく、協調の領域へと移行している。「GoogleもBooking.comも、いまや同じ卓上で議論をしている」という。

共通データを共有することで、企業同士に相互信頼が生まれ、業界全体の透明性も向上する。この“コレクティブ・アプローチ”は、分断されてきた旅行業界を再びつなぎ直す方法でもあるのだ。

6. 意図と行動のギャップを埋めること

多くの人が「サステナブルな旅をしたい」と望んでいる。しかし、実際に行動に移す人は少ない。この意図と行動のギャップ(Value-Action Gap)を埋めるには、データと規制という両輪が必要だ。

「WTTCの調査では、73%が『環境配慮型の旅を望む』と答えた一方で、実際に行動しているのは半数以下です。このギャップを埋めるのが、データと規制です。データが行動の指針を示し、規制が信頼の土台を築く。両方が揃って初めて、持続可能性は現実のものになるのです」

制度が変化し、社会の価値観も揺らぐなかで、ブーネン氏の言葉には一貫して「信頼」という軸が通っている。ツーリズムを持続可能にするのは、理念でも理想でもなく、誠実さを支える構造そのものだ。

揺らぐ政策環境と再構築されるリーダーシップ

ブーネン氏が語る道しるべは、政治的・制度的な不安定さを背景に生まれている。2025年6月、EUがグリーンクレーム指令の撤回を発表したニュースは、観光業界に大きな波紋を広げた。EU共通の環境主張基準が失われたことで、「規制の空白」や「認証の混乱」が懸念されている。観光業界は、持続可能性ソリューションを拡大し、効果を発揮させるために、世界的に整合した枠組みを必要としているのだ。

The Tourism Spaceの分析によれば、その影響は次の6点に及ぶ。

    1. 規制の断片化:EU共通基準の欠如により、加盟国ごとに異なる解釈が生じる。
    2. エビデンス義務の継続:撤回後もUCPDやECGTに基づき、根拠のない環境主張は禁じられている。
    3. 認証スキームの混乱:EU統一基準の不在で、複数の認証が乱立し、信頼性を損なう恐れ。
    4. グリーンハッシング:正直な企業ほど発信を控え、結果的に市場が歪むリスク。
    5. 公的部門のリーダーシップ強化:EU全体の規制が後退した分、地域やDMOの役割が増す。
    6. さらなる変化の予兆:ECGTや加盟国独自の施策が、次の制度改革へとつながっていく。

こうした不確実な制度環境のなかで、企業や自治体には新たな役割が求められている。企業は、環境ラベルや第三者認証を単なるマーケティング手段ではなく、検証されたデータとともに信頼を構築するための仕組みとして活用する必要がある。また、認証を取得したあとも、継続的なデータ更新と透明な情報共有を行うことで、旅行者との信頼関係を育むことも大切だ。

一方で、自治体やDMOは、地域事業者がこうした認証制度や報告基準にアクセスしやすい環境を整えることが重要だ。認証・データ・教育の三位一体により、地域全体が“誠実な観光”の基盤を共有できるようにしていくことが求められている。

ブーネン氏は、この動きを「警鐘ではなく、進化のサイン」ととらえる。

「制度の揺らぎを見ても、私たちが“共通言語”を持つ必要性は変わりません。規制が変わっても、データと透明性があれば道を見失うことはないでしょう」

EU観光政策の新たなステージへ

こうした動きは、EU全体の政策潮流とも呼応しているという。

2024年、アポストロス・ツィツィコスタス欧州委員が初の「持続可能な運輸・観光担当委員」に就任して以来、観光は明確に欧州グリーンディールの文脈の中に位置づけられるようになった。

2025年には「EU Sustainable Tourism Strategy」策定に向けた公聴会が始まり、観光をグリーン(環境配慮)、デジタル(データ活用)、レジリエント(強靭性)へと転換するための包括的な枠組みが動き出している。持続可能な観光を、地域経済の循環や社会的包摂の軸として再設計しようという試みだ。

2024年11月、アゼルバイジャンで開催されたCOP29では、COP史上初めて「観光における気候変動対策強化に関する宣言(COP29 Declaration on Enhanced Climate Action in Tourism)」が発表された。62カ国が賛同し、観光分野を各国のNDC(国別貢献目標)に組み込む必要性や、島しょ国を中心とした途上国への支援強化が明記された。

議長国アゼルバイジャンは、観光業が世界のCO2排出量の約8.8%を占めると指摘。観光分野が気候変動対策において極めて重要な位置を占めつつあることを浮き彫りにした。同時に、EUが進める「Tourism Transition Pathway」と「European Tourism Agenda 2030」も連携し、持続可能な目的地形成、地域経済循環、デジタル支援の強化が具体的に進みつつある。こうした動きのなかで、Travalystが掲げる「共通データ」と「共通言語」という理念は、まさにEUの観光政策全体の方向性とも一致する。

2024年の開催されたCOP29アゼルバイジャンにて

ブーネン氏は最後に、制度よりもその意図と誠実さに目を向けるべきだと語った。

「私たちの仕事は、人々に完璧を求めることではありません。信頼できる情報に基づいて、旅行者が誠実な選択を行うことを可能にする仕組みをつくることです。サステナビリティは誰かを罰するものではなく、選択の余地を広げるものなのです。例え仕組みが揺らいだとしても、Travalystと様々なプレイヤーがともに強調して生み出す、インパクトモデルをスケールさせるための国際的な枠組みが、信頼と協力によってその空白を埋めることができるでしょう。サステナビリティは、意図でも理想でもなく、選択を支える仕組みそのものです。観光業は、いまようやくその成熟の入り口に立っていると言えるのではないでしょうか」

2025上海にてTrip.comグループとExecutive Summitsを共催した。英国ヘンリー王子も姿を見せた。

取材後記

ツーリズムの世界はいま、理念よりも実装、理想よりも信頼が問われる時代に入っている。

ブーネン氏の言葉から伝わってくるのは、データや規制を「制約」ではなく、「信頼を築くための構造」として捉える成熟したまなざしである。

いま、制度が揺らぎを見せるからこそ、企業や自治体がどう動くかが問われている。認証やデータを競争の道具としてではなく、地域や業界が共有する“共通財”として扱えるか。

その姿勢こそが、社会の信頼を土台に、関わる組織や人々が「それぞれのプラスを持ち寄り、意味のあるつながり」を育むハブとしてのツーリズムを形づくっていくのではないだろうか。

【参照サイト】Travalyst – Changing travel, for good
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Edited by Erika Tomiyama

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