男女の違いを法に反映するイスラム教。チュニジアの事例から考える「平等」とは?

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イスラム教では結婚相手の制限がある。男性イスラム教徒は女性一神教徒としか結婚ができず、女性イスラム教徒は男性イスラム教徒としか結婚できない。「なぜ?」と聞くのは野暮だ。すべては神がそう言っているから。そして聖典にそう書かれているから。所詮ちっぽけな人間が苟もその根拠を求めたり、近代の幻想である人権を持ち出したりして向こうの人と「対話」しようとしても、議論は平行線しか辿らないことは心得ておいたほうがよい。

その上で、アラブ諸国の中でも女性の人権への理解が進んでいると言われるチュニジアで、この戒律に変化があった。ムスリムのチュニジア人女性が非ムスリムの男性と結婚する自由が認められたのだ。2014年のアラブの春以降に採択された憲法にこの古くからの戒律は違反していると考えられたためだが、神学者などからは反対の声が挙がっている。

このニュースを見て「女性の権利が拡大し男性と平等になり、良かった」と捉えてもいいが、とりあえずこの個別事例は置いておき、もっと広い意味で「同じ権利が認められれば全部上手くいくのか。それが平等なのか」という点について考えてみたい。

そもそもイスラム教の根本的な考え方として、異なるものには異なる法規範が妥当するべき、というものがある。男女は明らかに違っているのだから、異なる義務および権利が該当するという考え方だ。その結果、外部からだと女性の自由が制限されているように見え、ひどいと感じるのも分かるが、一方ではこの「違うものは違うと認める」姿勢には潔さも感じる。

翻って、日本ではどうだろうか。法律上では男女に同等の権利が認められているはずなのに、現状は「あれ?」と感じることも多い。法律では男性も育休を取得できるはずなのに実際の取得率は女性よりずっと低く、女性の管理職比率も低いなど、現実は平等とは言い難い事実を目にすることもある。これには、根付いた風習は簡単に変えられない、女性も結局は女性としてのアイデンティティを保持したいなど色々な理由が考えられるが、「法の下での平等」の無力さを感じることしきりだ。

「平等とは同じであることだ」という方針に現実がついていけてないとも言えるのではないか。もともと違うのだから、同じになれないのは当然だ。そもそも平等とは何だろうか。どこをどのように調整すれば平等になるのかという点も含めて、非常に厄介な概念だ。

近年は男性、女性、さらに発信力をつけてきたLGBTも加わり、様々な建て前と本音がせわしなく錯綜している日本。チュニジアの件を見て「これで向こうもようやく近代化か」と構えるのではなく、こちらも大したことは無いし、互いに考えながらやっていくしかないのでは、と感じる。

【参照サイト】Tunisia lifts ban on Muslim women marrying non-Muslims

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