アメリカの由緒ある辞書であるMerriam-Websterは、毎年、年末にその年を象徴する言葉を発表する。2019年の「今年の言葉」として選出されたのは、“they”。この言葉は昨年に比べ検索件数が313%も増加したそうだ。
誰もが知っている基本的な単語、“they”。その意味を検索する人が今年、急に増えた背景とは?ニューヨーク在住7年目の筆者が、実体験を含めて解説する。
英語ならではのジェンダーの複雑さ
まずは、“they”という言葉の基本的な意味を改めて確認する。中学英語の文法で習った方も多いと思うが、これは三人称複数の代名詞で、「彼ら」「彼女ら」を指す。この言葉が近年、三人称単数の代名詞として使われることが増え、その意味や用法を調べるために検索されることが急増しているという。
英語は日本語と比較して代名詞が多用される言語である。その中でも特に、これは今回この記事を通してポイントになってくる点でもあるのだが、三人称単数の代名詞である“he”と“she”は、性別を区別する役割も持つ。
特定の第三者を指す場合、日本語では繰り返し名前を使うことが多い。
A:「中村さんはもう出社してる?」
B:「うん、中村さんならもう来てるよ。」
それに対し、英語では、第三者は二回目以降は代名詞で示される。また、英語社会では苗字ではなくファーストネームで呼ぶのが一般的なのもあり、話し手が名前などの情報をベースに、その第三者の性別を判断しながら代名詞の性を選択する必要が出てくる。
A:“Is Mike here already?” (マイクはもう出社してる?)
B:“Yeah, he’s here.” (うん、彼ならもう来てるよ。)
21世紀の今、名前や身体的・生物学的な性別ではなく、本人が認識しているジェンダーに重きが置かれるようになり、実はこの“he”や“she”が非常にややこしい言葉になってしまった。確実に相手のジェンダーがわかっていたら話し手も選択がしやすいが、必ずしもそうとは限らない。さらには、ビジネスの場などでは、例え本人の希望するジェンダーがわかっていても、仕事上混乱を避け円滑なコミュニケーションを図るためにも、名前や身体的・生物学的な性別で代名詞を選ぶことも、依然として多いと感じる。
三人称の代名詞“he”, “she”, or “they”?
その複雑な状況をクリアにする言葉として使われ始めたのが、“he”でも“she”でもない、“they”なのだ。この三人称複数の代名詞を、ジェンダーに左右されない三人称単数の代名詞として使われることがここ数年ぐっと増えた。
先ほどの例文は、Mike のジェンダーを特定しないとすると、以下の通りになる。
A:“Is Mike here already?”
B:“Yeah, they’re here.”
中学校で習った文法のルールでは正しくないが、これが新しい“they”の使い方なのだ。
実は、“they”が性別を特定しない三人称単数代名詞として扱われる例は、伝統的に存在した。
A:“Somebody left their wallet.” (誰か財布を置きっぱなしだよ。)
B:“Oh no, they must be in trouble.” (あら、今頃その人は困っているんじゃないかな。)
ここで使われる“they”や“their”は「彼ら」「彼女ら」や「彼らの」「彼女らの」という意味ではない。財布を忘れた人の性別やジェンダーはわからないので、それを特定しない三人称単数代名詞として“they”が使われるのだ。
本来こういった用法もある“they”が、現代のジェンダーが多様化した社会に適応できる言葉として発展したと言える。
ジェンダーが不確かな場合と、ノンバイナリーの場合
Merriam-Websterに記載されている、近年のジェンダー多様化に基づく“they”の具体的な定義は2つある。
- 本人がジェンダーを明言していない場合の三人称単数代名詞
- 本人がノンバイナリーであると明言している場合の三人称単数代名詞
筆者は、ニューヨークのパーソンズ美術大学でファッションを学び、その後ニューヨークのファッション業界で働いている。ファッション業界は、他業界と比較してもジェンダーに対してオープンな環境だ。その中で筆者は、様々な経験を通して新しい考え方を見てきた。そこで感じたことは、実は似ているように感じる“they”の2つの定義には大きな違いがあり、コミュニケーションにおける注意が必要だということである。
1つ目の定義は、意図的にジェンダーが明かされていないというところがポイントになる。学校や職場では、会話から相手のジェンダーは推測できることが多いが、自らはっきりと自分は“he”か“she”かを明言しない人は多く、かといって面と向かって本人の意向を尋ねることはセンシティブでもあり難しい。時間と丁寧なコミュニケーションを通して、本人が発信するものを読み取っていく配慮も、周りには必要だ。このように、本人がジェンダーを明かすことを望んでないため、“he”か“she”を明らかにせず使われる“they”が1つ目の定義である。
2つ目の定義は、本人がノンバイナリーであると自発的に明かす場合を指す。つまりこれは本人自身が“he”でも“she”でもないものを希望して使われる“they”なのだ。例えば、イギリスのシンガーソングライターのサム・スミスは、今年の9月に自らはノンバイナリーであり、コミュニケーションやメディアでの代名詞は“they”を希望することを発表した。
今年、こういった発言をした著名人が他にも存在し、“they”の考え方が注目を集め、ノンバイナリーへの理解を深めるきっかけとなった。
“they” 同士の葛藤
しかし“they”が2つの異なる定義を持つことは、実生活レベルでは矛盾を生み、さらなる混乱につながる可能性もある。
これは筆者の実体験なのだが、職場でまさにこの異なる2種類の“they”の使い方が同時に存在していたことがあるのだ。Max(仮名。生物学的性別は男性、ノンバイナリー)は自ら“they”を使って欲しいとチームに加わって早々に公言した。一方、Tom(仮名。生物学的性別は男性、ゲイ)は自分のジェンダーは明言をしないので、人によって“he”、“she”、そして“they”を使う場合があり、やや複雑だった。
ある時、筆者がTomと2人で話していた際に、Tom 本人は「“she”が自分本来の姿に合っているけれど、明言はしていない。」「ノンバイナリーを明言しているMaxと同じように“they”を使われる時は、自分は(性別を固定しない立場をとる)ノンバイナリーではないのに、そう思われているように感じる。」とこぼしたのだ。
学校や職場などで自分のジェンダーを周りに公表するかどうかは、本人の自由である。あえて明言しない人向けの“they”(ジェンダーはわからない)と、自ら希望する“they”(ノンバイナリー)は、実は全く異なることなので、この2つの “they を更に区別するなどのソリューションが今後出てくるかもしれない。
まとめ
日本とアメリカでは、ジェンダー多様性の受け入れられ方や、代名詞の使われ方に違いがあり、言語のレベルでもジェンダー多様化に伴う変化の流れが異なってくる。しかし、“they”の考え方が示唆する多くのジェンダーを尊重する視点は、ふだん日本語で生活している日本人にとっても、知っておくべき価値があるものではないだろうか。アメリカをはじめとする英語圏では、辞書も更新されるほどに浸透しつつある。特に、英語圏で仕事をする機会がある方は覚えておくといいだろう。
【関連記事】ノンバイナリーとは・意味
【参考サイト】Merriam-Webster’s Words of the Year 2019