「二酸化炭素は、単なる物質的なガスではない。その1トンが、何のために排出されたのか。その『中身』を問わなければならないのです」
フランス・パリで開催された世界最大級の社会変革イベント「ChangeNOW」。そのステージで、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員である、マルコム・フェルディナンド博士の言葉に、ハッとさせられた。
私たちは往々にして、戦争を「政治」の問題、気候変動を「環境」の問題として、別々の問題で捉えることが多い。しかし、環境エンジニアであり政治哲学者でもある博士は、著書『脱植民地的な生態学(Decolonial Ecology)』を通じ、私たちが別個の問題として扱いがちな「戦争(政治)」と「気候変動(環境)」は、過去の植民地主義から現在に至るまで地続きに続く支配構造の中で生じている現象として捉え直すべきだと訴えている。
フェルディナンド博士、そしてソマリアやパレスチナの最前線で活動する登壇者たちの言葉を紐解きながら、私たちが無意識に受け入れている「システム」について考えていきたい。

Image via ChangeNOW | Photo by francois_durand
「戦争」こそが、最大の気候破壊システムである
フェルディナンド博士が指摘するのは、戦争と気候変動が「つながっている」という表層的な話ではない。両者の根底には、特定の土地や人々を犠牲にし、資源として一方的に利用するという共通の発想がある。
それは、特定の土地や人々を「犠牲にしてもよいもの」とみなし、資源として一方的に利用する発想である。戦争においては、ある地域が軍事拠点や戦場として消費され、人々の生活や自然環境が破壊される。一方で気候危機においても、鉱物資源の採掘や大規模開発の名のもとに、特定の地域の生態系やコミュニティが犠牲にされてきた。
つまり両者に共通するのは、「誰が守られ、誰が犠牲になるのか」を外部から決定する非対称な権力構造である。
それを象徴するのが、戦争による炭素排出量が十分に把握されていないという統計上の空白だ。
ウクライナでの戦争による3年間の排出量は約2億3,000万トン。これはハイチやソマリアなど5カ国の年間排出量合計を上回る。またガザでは、攻撃と今後の復興に伴う負荷だけで135カ国以上の年間排出量を凌駕すると見込まれている(※)。
これほど甚大な気候変動の要因でありながら、軍事活動はパリ協定の報告義務から事実上除外されている。1997年の京都議定書以来、米国などの強い要求により「国家安全保障」は大義名分となり、排出責任はブラックボックス化されてきた。
ある場所では、軍事基地や採掘現場のために豊かな生態系が使い捨てにされ、またある場所では、軍隊が放つ膨大なCO2が「安全保障」という名の下に統計から消し去られる──Clean Earth Gambiaの創設者であるモデレーターのファトゥ・ジェン氏は、「どの土地を搾取し、どの土地を保存するか。それを決めてきた数世紀にわたる植民地主義的なロジックが、戦争と気候危機の両者を作り出している」と強調した。
ここで私たちが問うべきは、排出量そのものだけではない。「爆弾を落とすために排出される1トン」と、「乾燥した大地で住民が生きるために水ポンプを動かす1トン」を、果たして同じ「CO2」として測定して良いのか、という倫理的な問いである。
フェルディナンド博士は、このように、主にグローバルノースの豊かさや安全が、グローバルサウスの土地や資源、そして人々の犠牲の上に成り立つ非対称な構造を「植民地的な居住(Colonial Inhabitation)」と呼ぶ。かつて産業革命の煙突から立ち上る煙が、その足元にある凄惨な奴隷労働を覆い隠していたように、現代でも、環境負荷の少ない未来として語られる暮らしや産業の背後には、軍事占領や資源争奪、搾取の構造が折り重なっている。しかし、その接続はしばしば見えにくいままにされている。
グローバルノースに生きる私たちの「心地よい居住」が、他者の「持続不可能な犠牲」の上に設計されているという、不都合な制度的欠陥。排出量の多い・少ないを比べる前に、まずはこの不公平な仕組みそのものを見直すこと。そこにこそ、今の私たちが向き合うべき大切な課題があるのではないだろうか。

モデレーターのファトゥ・ジェン氏と、マルコム・フェルディナンド博士
ソマリアの現場から。気候・紛争・経済の不可分性
基調講演に登壇したElman Peace and Human Rights Centre COOのイルワド・エルマン氏は、ソマリアでの現場の視点から「戦争と気候」がいかに不可分であるかを説いた。
「私の故郷では、干ばつは単なる環境問題ではありません。それは家族が移動を余儀なくされることを意味し、移動は資源をめぐる新たな競争と紛争を生みます。ここでは環境、安全保障、経済は一つのシステムとして同時に体験されるのです」
エルマン氏が取り組む「Drop the Gun, Pick up the Pen(銃を捨て、ペンを取れ)」という活動は、元戦闘員の社会復帰を支援するものだ。彼女は、平和構築には「尊厳ある生計(経済)」が不可欠だと主張する。
「若者が暴力を離れるのは、単に『やめろ』と言われたからではありません。技能を身につけ、収入を得て、帰属意識を持てる場所があるからです。脆弱な国として語られがちなソマリアですが、そこには34年間のガバナンス不在を生き抜いたダイナミックな民間セクターや、世界最安水準の高速インターネット、キャッシュレス社会といった『適応の知恵』が溢れています」
危機から脱植民地化することは、単に言葉を変えることではなく、誰が解決策を定義し、誰が資源をコントロールするかという構造そのものを変えることを指す。外部から解決策を「輸出」するのではなく、現地のレジリエンス(適応力)に学び、決定権を再分配することが必要不可欠なのである。

Elman Peace and Human Rights Centre COOのイルワド・エルマン氏
パレスチナでのエピステミサイド(知識の破壊)との戦い
パレスチナからは、ベツレヘム大学で生物多様性を研究するマズィン・クムスィーエ教授と、文化実践者として瓦礫の再利用に取り組むラニーム・ドラメ氏が登壇し、占領下における環境と知識の破壊について語った。
ノーベル平和賞候補にもなったクムスィーエ教授は、数十年にわたりパレスチナの生物多様性を研究してきた。「植民地主義は多様性の敵です。それは人間だけでなく、自然の多様性も奪います。肥沃だった湿地は干上がり、数百万本の樹木が引き抜かれました」
教授がベツレヘムに設立した生物多様性・持続可能性研究所は、研究そのものを「一つの抵抗の形」と位置づけている。「自分たちには状況を変える力があると信じる『自己への敬意』、他者への敬意、そして自然への敬意。一つでも欠ければ、人類は絶滅に向かうでしょう」
一方、研究者であり起業家でもあるラニーム・ドラメ氏は、ガザに積み上がる6,000万トンの瓦礫が持つ意味を問い直した。
「瓦礫は単なる廃棄物ではありません。そこにはかつての暮らし、アーカイブ、記憶、そして日常のインフラが詰まっています。これをただのごみとして扱うことは、その土地の歴史を消し去ることに等しいのです」
彼女が危惧するのは、「エピステミサイド(知識の破壊)」だ。学校や大学、研究センターが破壊されることは、そのコミュニティが自らの知識を生成し、未来を定義する能力を奪われることを意味する。
「現地の知識や文脈を無視した『トップダウンの再建』は、破壊以前に存在した格差や支配構造を再生産するリスクがあります。再建とは、単に建物を建てることではなく、土地との関係性や知の主体性を取り戻すプロセスであるべきです」
このラニーム氏の言葉が示す通り、脱植民地化は、外部からの設計ではなく、人々の手による「草の根」のプロセスにこそ宿るものだ。地道でボトムアップな営みが、権力の引いた地図を塗り替え、奪われた尊厳を土地へと取り戻していくのである。
システムは人間が作り、人間が解体できる
「誰かの持続不可能な現在の上に、持続可能な未来を築くことはできない。グレーな戦争の上に成り立つグリーン・トランジションなど存在しない。そして、軍事的責任を免除する気候正義もあり得ない」
セッションの締めくくりに、モデレーターのジェン氏はこう問いかけた。私たちが「クリーン」だと信じている電気自動車のバッテリー素材が、紛争下にあるコンゴ民主共和国で誰かの犠牲の上に採掘されているとしたら。それは名前を変えただけの「植民地主義」に過ぎない。
このコラムを読んでいるあなたは、投資家かもしれないし、教育者、起業家、あるいは学生かもしれない。私たちが向き合うべきは、自分がどのシステムに加担し、どのような未来を構築しているかということだ。
「危機の脱植民地化」とは、遠い国の物語ではない。私たちが使うデバイスの素材が、どこで、誰の犠牲の上に採掘されたのかを知ること。「脆弱な国」とされる場所に住む人々の知恵を、対等な解決策として尊重すること。平和なくして環境問題の解決はないと認識し、軍備拡大よりも対話と正義にリソースを割くよう声を上げること。
「システムは人間が作ったものであり、ゆえに人間が解体し、作り直すことができる」
世界中からパリに集まる人々の議論からは、そんな希望が感じ取れた。
※ Two weeks of war in Iran unleashed more carbon pollution than Iceland does in a year










