アイルランドの首都ダブリン郊外のまち、ダンドラム。街の中心部から路面電車で20分ほどで到着するこの地域は、アパートなどが立ち並ぶ、閑静な住宅街だ。住み心地の良さそうな場所だなと思いながら、駅を出て歩みを進める。5分もしないうちに見えてきたのは、石垣の向こう側にある緑の牧草と、数頭の茶色い牛たちだ。
牧草の手前の門を通り抜けると、車の走る音は遠のき、時たま鳥のさえずりと、牛が草をはむ音だけが聞こえる。まちからゆるく区切られた心地よさに、思わず深い息を吸った。
ここは、「Airfield Estate:エアフィールドエステート(以下、Airfield)」という名の都市農園だ。人々が住むまちの中にありながら38エーカーの広大な土地を持ち、環境に配慮した農業の実践や、動物の飼育などを行っている。ただし、食物を育てることは、この場所の最終目的ではないようだ。
「私たちがめざしているのは、“ダブリンのサステナブルな食のハブになること”なんです」と、この日農園を案内してくれたスタッフのCaitlin(ケイトリン)さんは話す。
Airfieldがユニークなのは、都市農園という言葉からは想像できないほど、その場所にさまざまな機能を備えていることだ。例えば、農園の中には畑や牧場のほか、ガーデンや料理スタジオ、土壌について学べるミュージアムなどがある。さらに、農園の外にはこの場所で育てた食材をいただけるレストランが。これらの施設で開催する魅力的なイベントもまた、人々がこの場所に足を運ぶきっかけを上手に作っている。
サステナブルな食のハブになる。そんなビジョンをかかげる都市農園は、いったいどんな場所なのだろうか。実際に現地を訪れた筆者が、ケイトリンさんの話も交えながら、レポートしていきたい。
食べものを育てるだけではない、農園を超えたフィールド
筆者がこの場所を初めて訪れた日、まずはその敷地の広さに驚いた。郊外とは言え、都市の中にこれだけの面積の農園があるのは珍しい。東京ドームで例えると、大体3つ分を少し超えるほどにあたる。
大きな面積を占めているのは、数十種類の野菜やハーブを育てる畑や、牛や豚などを放し飼いにする広々とした牧場だ。これらは出荷用ではなく、ほとんどが農園外のレストラン「Overend Kitchen」で食材として使われる。筆者が訪れた秋には、収穫時期のレタスやケールなどが植えられていた。
「ここでは、人工肥料を使わず、また畑を耕さない不耕起栽培を実践しています。畑を耕してしまうと、土壌が硬くなってしまい、その質が落ちてしまうからです。時間はかかるけれど、雑草をひとつひとつ手で取り除き、あとはビニールを被せてしばらくそのままにする。そうすれば、数か月後には熟した良い土壌ができるんです」
農園や畑は全て小道でつながっており、その間に冒頭でも触れたさまざまな施設が点在している。
入り口を通ると出迎えてくれるのは、季節の草花を楽しめる大きなガーデン。区画ごとに名前がつけられており、全て植栽のプロの指導のもとに作られたものだという。その向こうには、農園を運営する非営利団体Airfield Estate創設の元となった家族が住んでいた家を改装した博物館がある。
少し奥に進んでいくと、子どもたちが園庭のような広場で遊んでいる。覗いてみると保育園のようだ。続く野菜畑の向こうには、パンづくりや発酵食品づくりなど、さまざまなテーマで料理教室を開催する小さな料理スタジオがある。「手前の畑に生えているハーブを摘んできて、料理に使っています」と、ケイトリンさんが教えてくれた。
一番の目的は、「食」について学んでもらうこと
農園に足を運ぶというと、思いつくのは農家さんの手伝いをする援農くらいだろう。一方でこの場所では、農園やガーデンで散歩するもよし、自然の中で思いきり遊ぶもよし、レストランで新鮮な食材のお料理をいただくもよし。人々が訪れたくなる理由がいくつもあるのだ。
ケイトリンさんは、そんなAirfieldの真の目的は、「人々を教育すること」なのだと話す。
「農業は、アイルランドにとって非常に大事な主要産業のひとつです。にもかかわらず、都心で生まれた育った子どもたちが農業に触れる機会は少なく、農場や農園は身近ではありません。そんな子どもたちにとって、都心からすぐに足を運べるこの場所は、食の生産を目で見て、触って、体験を通して学べるフィールドなんです」
Airfieldでは、小さな子どもから高校生や大学生まで、学校などの団体での訪問を頻繁に受け入れているという。この日も、ちょうど学校の授業で訪れていた高校生の集団とすれ違った。
Airfieldは最近、国の研究機関としても認定された。今後は大学との協働の幅も広げていくという。農園は、より良い農業のあり方を探るために試行錯誤を重ねる“実験場”でもあるのだ。
「実験を繰り返し、方法を改善することを通して、常に学んでいます。もちろん、うまくいかなかったこともたくさんありますよ。例えば、何度も栽培を試みたブドウの栽培は、結果的にはあまり成功しませんでした。そんなときは、気候条件や品種、病気といった原因を究明し、この場所の気候や土地により適した別の品種を探したり、別の作物を植えたりするようにしています」
土壌は私たちが見逃している“ミッシング・ピース”
ケイトリンさんの話を聞いていると、度々「土壌」というキーワードが出てくるのに気づく。それは、Airfieldとして今最も人々に伝えようとしていることのひとつが、「土壌の大切さ」だからだ。
「私たちは、植物にどう水をあげるか、天候がどうかといったことは、当たり前に気にかけますよね。一方、足元にある土壌のことは、多くの人が忘れています。土壌って、見た目がすごく魅力的ってわけじゃないしね(笑)。でも、栄養価の高い作物を育てるのに最も欠かせないのは、豊かな土壌なのです。土壌は人々が見過ごしてきたけれども全ての食に欠かせない大事なもの……いわば、”ミッシング・ピース”だと考えています」
なかなか着目されにくい土壌が、作物や私たちにとっていかに重要なものであるかを伝えたい。この課題意識から生まれたのが、農園の中に作られたミュージアム「World of Soil(土壌の世界)」だ。
ミュージアムは、一見簡易的な作りに感じられるプレハブの中にある。狭い入り口をくぐり抜けると、そこには窓がない洞窟のような空間が広がる。土の中の世界の始まりだ。
土壌のミュージアムと聞くと、難しそうなイメージを持つかもしれない。だがこのWorld of Soilは、子どもに楽しんでもらうための体験やデザインを盛り込んでいることが特徴だ。例えば、部屋の中心にある、まるで天文台の望遠鏡のように大きな顕微鏡は、子どもがワクワクする方法を考えた結果できあがったという。
一方で、その内容は大人にとっても学びになる本格的なものだ。筆者の印象に残ったのは、「良い土壌の条件」を学べる展示のひとつ。
写真にある3つの箱には、左から「低」「中」「高」とそれぞれに保水力の異なる土壌が入っており、手前のボタンを押すと水が流れ出てくる。保水力が一番低い土壌の箱からは大量の水が流れ出てくるが、一方で一番豊かな土壌が入っている「高」の箱からはほとんど水が流れ出てこない。これが今、実際に地球上で質の高い土壌がある土地とそうでない土地の間で起こっている違いなのだと、視覚的に理解することができた。
ミュージアムの外には、土壌を使ったアクティビティのためのスペースもある。この日は、地元の小学校の子どもたちが訪れていた。
子どもたちが行っていたのは、土の中からミミズを探すアクティビティや自分用の苗床作り、土壌をピグメントとして用いた絵の具でのお絵かきなどだ。中でも楽しそうだったのはミミズ探し。ミミズを気持ち悪がっている子どもは一人もいないようだ。ミュージアムの展示で、「ミミズは豊かな土壌を作る、土の中のヒーロー」と、学んだあとだったからかもしれない。
「食べる」を通して食の循環を感じる、究極の地産地消レストラン
農園の入り口横のレストラン「Overend Kitchen」では、野菜からお肉、牛乳や卵に至るまで、この農園で育てた食材を可能な限り用いた料理を食べることができる。突極の「Farm to Fork(畑から食卓へ)」レストランというわけだ。
さらに、レストランで出た食品廃棄物は、機械で細かく粉砕してコンポスト化し、また農園で育つ食べものの肥料となる。土壌から始まった食べものの命が私たちの食卓に届き、そしてまた畑に還って行く……。そんな「食の循環」を体感できるのも、Airfieldの魅力だ。
日の光がたっぷりと入り込む木造の店内には、小さな子どもを連れた母親グループからお年寄りまで多様な人たちが集い、それぞれに食事を楽しんでいる。カウンターには週によって替わる色とりどりのサラダや、フォカッチャやクロワッサンなどのパンやケーキがずらりと並ぶ。
筆者はこの日、サラダをいただいた。大きなプレートにふんだんに盛られた野菜は、それだけで十分お腹を満たしてくれる。自分が今食べている物が育った場所のことを思い出すと、普段は忘れがちな食べものへの感謝の気持ちが、じんわりと湧いてきた。
Overend Kitchenは、ダブリン一のサステナブルなレストランとして、アイルランドのレストラン協会(Restaurant Association of Ireland)の認定も受けている。農園には入らずこのレストランで食事をすることを目的に訪れる人も多そうだが、何より料理を「美味しい」と感じてもらうことは、環境にも身体にもより良い食の選択を促す入り口となる。ケイトリンさんが言う、ダブリンの「サステナブルな食のハブ」になるためには欠かせない場所だと感じた。
編集後記
「We are what we eat.(私たちは、私たちが食べるものでできている)」。これは、スローフードを世界に普及させたアリス・ウォータース氏が2021年に出版した本のタイトルにある言葉だ。
都市に住んでいると、自分が毎日食べているものひとつひとつが明日の自分を作っていくのだという感覚を、つい忘れてしまいがちだ。それらが誰かの手で育てられ、「生きて」いるものだったということも。
Airfieldは、そんな「食とのつながり」を、改めて思い出させてくれる場所だった。
本記事では触れなかったが、Airfieldは他にも、地元の生産者を支援する週末のファーマーズマーケットや、フィールドを使った子ども向けのワークショップや季節のイベントなどを開催し、人々が気軽に足を運べるきっかけを常に作り続けている。
また訪れたくなる場所づくりを通して、よりよい食のあり方を伝えていく。都市農園が担える役割の多さに気付かされた訪問だった。
【参照サイト】Airfield Estate
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