日本は多様性のない国なのか?

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2017年は日本デンマーク外交関係樹立150周年を記念して、日本及びデンマークでさまざまなイベントがおこなわれている。そのひとつとして、3月20-21日、デンマークのコペンハーゲン大学で”Viewing each other”という講演会が開催されたので、参加した。

興味深かった講義のひとつが、「『多様性』とはなにか?」という問いである。あなたは、「多様性」と聞くとなにを思い浮かべるだろうか?

以前の筆者は、「多様性」といえば人種や国籍、言語、宗教、文化、民族といった、どちらかというと表面や外見からわかるものしか思いつかなかった。まさにメディアで紹介される多様性の典型的イメージそのものだ。

筆者の訪れたことのある都市のなかだと、たとえば、米国のニューヨークや英国のロンドンは、白人はもちろん黒人やアジア人も多く、宗教もキリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教などさまざまで、さらに聞こえてくる言語は英語だけでなく中国語、スペイン語、アラビア語、日本語などなんでもありと、非常に「多様」だった。

一方で、黒人やイスラム教の人が多いわけでもなく、顔つきは皆ほぼ同じ、言語は日本語のみの日本は、筆者の以前の基準からみると多様性のないつまらない国だった。実際、ワシントンポスト紙の記事によると、日本は民族的に「最も同質的な国」のひとつとされている。

しかし、この講義のなかでの多様性には、上記以外にも考え方、観点、経験、仕事のレベル、スキル、ジェンダー、年齢、身体的能力といった、内面的なものも含まれている。この新しい基準からすると、日本国内でも、考え方や観点、経験、仕事のレベル、スキル、身体的能力は人それぞれ異なり、日本も多様性のある国なのかもしれないと考えるようになった。

この講義をきっかけに、日本の多様さに気がついたのは、意外にもデンマークに住んでいるときだ。白人のデンマーク人が自分と同じようにパーティーで着る服が派手すぎないか一緒に悩んでいると、デンマーク人でも日本人みたいに人の目を気にするんだなと思う一方で、逆に同じ日本人でも、アート作品を見て一方は「幸せそうな」絵だと感じ、他方は「悲しそうな」絵という真逆の感想を持ったりすると、外面だけの多様性ではなく、一人ひとりの内面の多様性が非常に豊かなことが判明する。

筆者もそうであるが、人はそれぞれ自分自身の「基準」を無意識に持っている。基準が違えば、すべての見方は異なってくる。だからこそ、自分とは異なる人の多い環境に身を置いて、さまざまな見方を得ることができれば、視野が広がり、人生がさらに豊かになるのではないかと思う。

講義のなかでも、多様性は、社会・経済的利益をもたらし、より良い社会を作るのに必要な要素であると言っていた。また、仕事のパフォーマンスの良いチームは、国籍、ジェンダー、経験、知識などがミックスされていたというデータもある。新しい価値観や知識が出会うなかで、お互い刺激し合い、インスピレーションを受け、より良いアウトプットが出来上がっていくのだろう。事実、近年、国際競争力を高めるべく、日本企業もバックグラウンドや経験、価値観の異なる人材の多様性を求めている。そして、それは必ずしも海外に行かなくても、日本国内にいても、たとえば、普段とは異なるコミュニティに参加して自ら多様性のある環境を作っていくことができる。

外面的には多様性がなく、ほぼ日本人だけの単一民族国家に思われている日本。しかし、同じ日本人であっても、一人ひとりの内面は多種多様であり、可視化していない多様性が確かに存在する。

あなたも、一度も話したことのないご近所の方に話しかけてみたら、珍しい経験をしていたり、おもしろい観点や、驚愕の身体能力を持っていたりする可能性も十分にあり、思わぬ発見があるかもしれない。日本にいても、身近なところから無限大の「多様性」を感じることができるのではないか。

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