デンマークの首都コペンハーゲンで2003年に開店し、2010年以降4度にわたってレストラン誌の「世界のベストレストラン50」で第1位に選ばれた実績を持つ、世界最高のレストラン「noma(ノーマ)」。
このnomaの創業者の一人が、クラウス・マイヤー氏だ。nomaを通じて「新北欧料理」の存在を世界に広く知らしめ、デンマークの食文化の歴史を大きく塗り替えたクラウス氏は、現在では食を通じて世界にポジティブな変革をもたらすべく、社会起業家として南米やアメリカなど全世界にその拠点を広げて精力的に活動している。
今回IDEAS FOR GOOD編集部が参加した、食をテーマにデンマークの文化について学ぶフォルケフォイスコーレプログラム「New Nordic Cuisine」では、クラウス氏とともに料理を作り、同氏のライフストーリーについて話を聞くことができた。
クラウス氏はどのような経緯で食の世界に飛び込み、nomaを創業し、そして現在のように社会起業家として活躍するにいたったのだろうか。そのストーリーには、私たち一人一人がよりよい人生を生き、社会によりよい変化をもたらすうえで大事なエッセンスが詰まっていた。今回はクラウス氏の話の中から特に印象に残った一部をご紹介したい。
貧しい食とともに過ごした少年時代
クラウス氏の「食」に対する想いの原点にあるのは、少年時代の「貧しい」食卓の記憶だ。1963年に南デンマークで生まれたクラウス氏は、当時をデンマークの食の歴史においてもっとも「暗黒の時代」だったと表現する。
第二次世界大戦以降急速に経済発展を遂げたデンマークは、1960年に工業生産が農業生産を追い抜くなど、変化の真っ只中にいた。あらゆる分野で工業化が進展するなか、経済性や効率性が全てにおいて優先されるようになり、その変化は人々の生活の中にも入り込んでいく。
「少年時代を振り返って真っ先に思い出すのは、地下室にあった何年も前に東欧で簡易にボイルされた古い肉、古い魚、古い野菜の大きなパックだ。それらは安く手に入り、効率的だった。ちょうど僕の母親は外で働き始める最初の世代だったから、家で料理をする時間はなかったんだ。そして父親も料理はしなかった。生活のすべてにおいて経済性と時間の効率が優先されていた。だから、いつも冷凍食品ばかり食べていたし、調理に使うものといえばトランス脂肪酸たっぷりのマーガリンと大量のパン粉だった。また、ミートボール缶みたいな加工食品もたくさん食べていたね。そんな食生活だったから、僕の体重も15歳になるまでには100kg近くになってしまったんだ。地元では一番太っている子供の一人だったよ。」
少年時代の食生活についてそう語るクラウス氏だが、それではデンマークの食文化が工業化以前はとても豊かなものだったのかと言えば、決してそうではない。デンマークでは、歴史的にも簡素な食生活が基本だった。その理由について、クラウス氏は宗教との関係性があると言及する。
「コペンハーゲン大学のすごく面白い研究を見つけたんだ。その研究によれば、1700年代から300年間にもわたる食や性に対する禁欲主義的な運動は、清教徒(※プロテスタントの一派で禁欲主義の人々)の聖職者たちと医者たちとの悪しき同盟関係によって主導されていた。愛する人や友人のために美味しい料理を用意することは、盗みやアルコール中毒、ダンスや近親相姦などと同じように人生における宗教上の罪悪として考えられてきたんだ。聖職者たちと医者たちは、うまく彼らの哲学を伝えた。もしこの世で長く健康に人生を過ごし、あの世で地獄に行くのを避けたければ、一番安全な戦略は、食事はあまり美味しくないものを食べてすぐに済ませてしまうことだってね。」
こうした宗教的な背景と、工業化によるライフスタイルの変化により、クラウス氏は貧しい食生活のなかで少年時代を過ごすことになる。また、クラウス氏が14歳のときに両親は離婚し、母親は離婚がきっかけでアルコールに溺れるようになった。後に世界を代表するレストランを創業することになるクラウス氏の原点には、食をめぐる暗く苦い記憶があるのだ。
フランスで気づいた、食と豊かさとの関係
しかし、そんなクラウス氏にも転機が訪れる。きっかけは20歳のときにギャップイヤーとしてフランスに移り住んだことだ。はじめてフランス料理を食べたとき、なぜ自分は子供時代にあれほどひどい食事をしなければならなかったのか、理解に苦しんだという。
当時、やりたいことが見つからなかったクラウス氏は、オペア(※外国にホームステイして現地の子供の保育や家事をする見返りに滞在先の家族から報酬をもらって生活する留学制度)としてパリの歯医者で働き始め、クリーニングやアイロンがけをしていたが、そこで肝炎を患ってしまい、療養もかねてフランス南西部のガスコーニュに移り、四代目のパン職人ギーとエリザベスの家に住み込みとして働き始めることになる。
ずっと息子が欲しいと願いつつも子宝に恵まれなかったギー夫妻はクラウス氏をわが子のように迎え入れた。両親が離婚し、それ以来父とも会っていなかったクラウス氏も、ギーを「心の父」と慕うようになる。二人の家で過ごした半年間はそれまでの8年間よりも幸せな時間だったという。クラウスはガスコーニュで、歴代の祖父たちから黄金時代のフランス料理を受け継がれてきたギーから、料理についてだけではなく、人生についても多くのことを学んだ。
若き日のクラウス少年に対して「大事なことは時間を無駄にしないことだ」と教えてきた実の父とは異なり、ガスコーニュの心の父は、いつも多くの人に囲まれており、せっかくお金を手にしても周りの人に全てを気前よくあげてしまうような、とても寛大な人だった。地元のバーにいって競馬を楽しみ、朝まで飲んで、せっかく稼いだお金もすぐに使い切ってしまうのだ。
ある日、毎月底をつくお金に頭を悩ませている妻のエリザベスの姿を知りながら、ギーの雇っている従業員たちが何もせずに手持ち無沙汰にしているのを見かねたクラウス氏は、ギーに対して「奥さんとも話した方がいい。あなたは人を雇いすぎだ。価格も上げたほうがいい。人々はみんなあなたのパンを食べたがってるんだから。何か間違ってるよ。毎日全てをあげてしまうのはやめて、一部のパンは残して次の日に売るようにしたほうがいい」とアドバイスした。すると、彼はクラウス氏を見てとあるフランス語の詩を引用して、こう語りかけたそうだ。
「いいかい、息子よ。幸せとは、自分の人生で何がやりたいのかを知ること。そして、自分の心に従う勇気を持つことだよ。」
この言葉は、その後のクラウス氏の人生にも大きな影響を与えることになる。
「彼はいつも自分のことを『息子』と呼んでくれて、こう話してくれた。気楽にいこうよ。『唯一大事なことは好きなことをやることだ。そして心に従うこと』だってね。また、彼は西洋社会における時間の概念に対しても真っ向から否定的な考え方を持っていて、こんなことも言っていた。『急ぐこと(Haste)は、愛情にとって、人類の文明にとって最大の敵だ』と。」
「Hasteとは、無批判に急ぐことで、狂ったように走り続けることだ。問題を直さなきゃ、敵に勝たなきゃって、人生のなかでゆっくりと内省する時間もないまま、急ぐこと。分かるかな?彼はゆっくりとした時間を大切にする人だったんだ。彼のレンズを通じて自分のそれまでの食文化を見つめ直してみると、そこにはスピードしかなかった。キッチンには冷凍野菜があって、僕の母親がそれを調理するのにたった5分しかかからない。そんな暮らしでは、人生は悪くなっていくばかりだ。」
ガスコーニュでの生活を通じて、クラウス氏は大切なことに気づく。それは、文明化と人生の豊かさとの関係だ。産業化が進み、効率化が優先される時代の中で育ったクラウス氏は、そうした時代背景こそが貧しい食事を生み出し、結果として人から幸せを奪ってしまっているのかもしれないと考えた。そこで、クラウス氏は「食」を見直すことで、人々の人生に豊かさを取り戻そうと決心する。
「もちろん、人生はそんな単純じゃない。毎週月曜に料理を作るのに3時間を使ったからといって、幸せになれるわけじゃない。だけど、それでもそこにかける価値はあると思ったんだ。少なくとも、それが自分の職業人生において進むべき道を照らしてくれた。僕は、デンマークの食文化を変えたいと思った。ミシュランで星をとるためじゃない。愛を守るためだ。そして、自分が苦しんだような食生活、家族のありかたに悩まされる子供の数を少しでも減らすために。」
New Nordic Cuisine Manifest(新北欧料理マニフェスト)の完成
デンマークの食文化を変えようと決意したクラウス氏は、料理学校の創設やテレビでの料理番組放映、チョコレートの輸入やケータリングビジネスなどありとあらゆることに挑戦する。しかし、それから16、7年ほど経過してもデンマークの食を取り巻く状況はなかなか変わらなかった。
そこで、クラウス氏はそれまでのやり方を変えて、トップダウンのアプローチをとることにした。小さなプロジェクトや発信などで孤軍奮闘するのではなく、仲間とともにトップから問題を解決し、ボトムへと波及させていくというやり方に切り替えたのだ。そこで生まれたアイデアが、料理のマニフェストを創るという方法だった。
「仲間とともに上から変えていく方法を考えるなかで、あることに気づいたんだ。それは、素晴らしい食文化を創るというコンセプトに対しては、誰だって反対できないということだ。北欧料理が世界でもっとも素晴らしい食文化になれると聞いて、それを望まない人などいないだろう?ただ、問題は、素晴らしい食文化とは何なのかについて、誰も勉強したことも説明したことも定義したこともなかったことなんだ。だから、僕たちは『素晴らしい食文化とは何か』について問うことにした。それはフランス料理のようなものか?いや、違う。なぜならフランス料理は健康に気をつかっていないし、サステナビリティについても気をかけていなかった。彼らは食料の廃棄を気にもとめていなかったんだ。そこで、僕らは、本当に素晴らしく、賞賛されるべきで、責任もあり、美味しくユニークな食文化とは何かについて考えて、それをNordic Cuisine Manifest(北欧料理マニフェスト)として書き起こすことにしたんだよ。」
そうして生まれたのが、クラウス氏を世に広く知らしめることになる。「New Nordic Cuisine Manifest」(新北欧料理マニフェスト)だ。
1, 我々が大切にしたい清潔感、新鮮さ、シンプルさ、道徳観を表現すること
2, 食で季節感を表現すること
3, 地域の気候、地形、水特有の食材の調理を基本とすること
4, 食べ物のおいしさに対する追求と、健康や「よりよいありかた」についての認識を組み合わせること
5, ノルマンディの食べ物や生産者たちを後押しし、それらの背景を広めること
6, 動物の福祉や海、耕地、自然の生態系を守ること
7, 伝統的なノルディック食材の新しい可能性を伸ばすこと
8, ノルディック料理のベストな料理手法や伝統と、外部からのアイデアを組み合わせること
9, ローカルな自給自足と高品質なものを組み合わせること
10, ノルディックの国々におけるすべての強みや利益に向けて、消費者、シェフ、農業や漁業、食産業、小売りや卸売り、研究者、教師、政治家や権威者が協力すること
このマニフェストには、食を通じて、人間だけではなくそこに関わる植物や動物などすべての生き物や自然を豊かにするというサステナブルな思想と信念が貫かれている。
Nomaの創業、そして世界一のレストランに
この新北欧料理マニフェストに基づいてデンマークの食文化を変えるべく、クラウス氏が仕掛けたもう一つの挑戦。それが、デンマークの歴史においても初となる、地元の食材だけを使って料理をつくるレストランをオープンすることだった。
「今でこそ、地元食材だけを使うレストランは当たり前になっているけど、2002年当時は、とても画期的だった。だからデンマークやスウェーデン、ノルウェーで一定の地位を得ているレストランは全てフランス人のシェフがやっていて、輸入した食材を使ってフランス料理を作っていたんだから。」
「だから、僕たちは地元の食材だけを使って一つ星のレストランを作ろうと決めたんだ。ただ、それと同時に、本当に世界中から注目を集めるためには新しい食の言語を発明する必要があるということも分かっていた。食のジャーナリストたちの注意を惹きつけるためには、地元の食材で美味しい料理を作るだけでは不十分で、お皿の上で新しい表現をする必要があったんだ。また、僕たちはより倫理的な観点からもっとも責任あり賞賛される食文化を創りたいとも思っていた。」
こうして2003年にコペンハーゲンに誕生したのが、後に「世界一」の称号を手にすることになるレストラン「noma」である。しかし、その経営は最初から順調なわけではなかった。
「レストランの誕生から一年たっても、厳しい時期が続いていたよ。僕らはブルーオーシャンで競合もいなかったけど、それは裏を返せば需要が全くないということでもあった。デンマークでは、おいしい和食を食べたいと思って朝に目を覚ます人はたくさんいるけど、北欧料理を食べたいと思って目を覚ます人はいなかった。だって、それまで美味しい北欧料理なんてものはなかったからね。」
当時、人々の北欧料理に対するイメージは決して良いものではなく、地元の食材だけを使ったレストランと言われても、誰も見向きもしなかったのだ。しかし、その状況が少しずつ変わり始める。
大きな転機となったのは、2005年にコペンハーゲンで開催された新北欧料理に関するシンポジウムで、クラウス氏らが北欧諸国の農水担当相らに対して「新北欧料理マニフェスト」を正式に採用し、「新北欧料理」を北欧諸国全体として推進していくよう説得することに成功したことだ。
「シンポジウムでは、北欧諸国の大臣に加えて、ヨーロッパ中からシェフが集まり、農家や研究者、大学関係者、食品や農業関連の大企業のCEOも集まった。そこで、僕らはどうすれば全員がwinを手にできるのか、どうすればこれから30年、40年、50年先を考えて僕らの子供たちが恩恵を受けられるような素晴らしい食文化をつくることができるかについて一日中話し合った。誰もが『新北欧料理マニフェスト』の考え方を気に入ってくれて、みんな会議が終わってそれぞれの場所に帰ったあと、マニフェストに沿って自ら動き始めたんだ。」
この会議をきっかけに「New Nordic Food Program(新北欧料理プログラム)」の推進が決まり、2016年には300万ユーロの予算がついて新北欧料理に普及推進活動に投資が行われた。また、この流れに沿って多くの食品関連企業も投資を進めることになった。
結果として、新北欧料理は徐々に広がり始め、スカンジナビア半島でもマニフェストの意思を受け継いだレストランが数多くオープンし、多くの人々がそれらを味わえる環境が整っていった。クラウス氏の考えた通り、トップダウンのアプローチは大成功し、考えに賛同したシェフたちがレストランをオープンし、そのレストランで修業したシェフたちがまた新たなレストランをオープンする、という形で新たな食文化が浸透していったのだ。
クラウス氏が創業したnomaは、設立から6年後の2009年にレストラン誌「世界のベストレストラン50」で第3位に輝き、翌2010年に念願の第1位を獲得し、世界一のレストランとなった。以降、2011年、2012年、2014年と第1位を獲得し、その名を世界中に轟かせた。
また、nomaの影響力は食だけにとどまらなかった。nomaの名が世界に知れ渡るにつれ、コペンハーゲンを訪れる観光客は増加し、ホスピタリティ業界では多くの雇用も生み出された。新しい文化の誕生が、産業を超えて価値を生み出したのである。
みんなにとってよいものを、みんなと一緒にやること
レストランnomaの成功、そして新北欧料理という新たな食文化を創り出すことに成功した秘訣について、クラウス氏はこう語った。
「このようなムーブメント、変革を生み出すうえで私が学んだことは、もしあなたが全員にとってより望ましい世界を実現するための仕事を見つけることができ、それが自分のライバルや仲間、顧客とともに協働しないかぎり、人生の限られた期間では決して実現できないようなものであれば、それはムーブメントを起こすためのとてもよい礎を持っているということだ。」
実際に、クラウス氏は自分がパンのムーブメントをどのように起こしていったかについて、とある自分のビデオを紹介しながら教えてくれた。
「このビデオからはエネルギーを感じられると思う。メッセージはとてもシンプルなんだ。僕らはただパンについて叫んでいただけ。僕たちはパンの作り方さえ忘れてしまった。2007年まで、デンマークのパンと言えば精白粉からできた真っ白なパンばかりで、とても不健康で糖尿病の原因にもなっていた。それらはデンマークの小麦からできたものではなくて、僕たちが食べている食事と地元の農家の間にはなんのつながりもなかった。新北欧料理の運動の目的は、これらのつながりを取り戻し、より人間らしい食文化を再構築することにあった。」
「穀物を1kgオーガニックにするだけで、330リットルもの地下水が農薬から逃れられる。少なくともそこには3つのwinがある。より美味しくて栄養のあるパン、より首尾一貫した食料システム、そして綺麗な地下水だ。だから、僕はこう考えた。まずはベーカリーから始めてみてはどうだろうと。これらすべての価値観を反映したベーカリーをね。ただ、最初は、他の人々が自分たちの市場を荒らされるのではないかと恐怖を感じないように、小さな規模で始めたんだ。そして、同時にステートメントをつくって、人々に対して考えを広めていったんだ。」
みんなをハッピーにするビジョンを持っていれば、あとはその実現に向けて人々をどう巻き込むかだけ。そのうえでは周りにも気を遣いながら、最初は小規模でもよいからしっかりと自分のメッセージを発信し、少しずつ考えを広めていく。それがクラウス氏のやり方だ。
「もしあなたが人々も参加できるような素晴らしいアイデアを持っているのであれば、まずはやってみること。本当にシンプルなことだと思う。」
次なる目標は、食を通じて社会をよりよい場所にすること
クラウス氏が自らの会社を立ち上げたのは1989年。その後、着実に会社は成長し続けるも、実に17年間にもわたり経営は赤字のままだった。そして、クラウス氏は2007年にようやく利益を出すことに成功する。2007年当時でも400名の従業員がおり、それだけの人数を抱えながらも利益が出ていないことに一抹の恐ろしさも感じていたという。
事業を通じて順調に利益を出せるようになったクラウス氏は、2010年に新たな挑戦をはじめる。それが、The Melting Pot Foundation(メルティングポット財団)の設立だ。同氏は、自分の会社の利益の5~10%をこの財団に投じることを決めたのだ。
「財団の目的は、自分たちの知識や食に対する専門性を生かして、社会的な弱者の人々に対して、リソースや希望、よりよい機会を提供することだった。」
クラウス氏は、自分の人生を変えてくれた「食」を通じて、次はより困難な環境にある人々の人生を変えようと考えたのだ。
最初のプロジェクトは、とあるディナーパーティーで知り合った女性から聞かされた、刑務所での受刑者の話から始まった。罪を犯した人々が何年も刑務所に入れられ、再起のチャンスを与えられていないという話を聞いたクラウス氏は、デンマークのような民主主義の社会において、彼らから自由を奪ってしまうこと、そしてもう一度社会に復帰して良き市民として生きるチャンスを奪ってしまっていることを問題だと考えた。
クラウス氏は、この刑務所で料理教室を行うというプロジェクトに実現にあたり、その取り組みをテレビで放映することにした。社会復帰というテーマについて世の中の議論を生み出すためだ。そして、プロジェクトに参加した受刑者たちは8週間のトレーニングを終えた後にディナーを用意し、そこには彼らの食事をジャッジしてもらうために、デンマーク中の有名なフードジャーナリストらも集められた。
これらの取り組みは大成功し、結果として142名の受刑者がこの料理教室を卒業し、その成績は12段階中10.2と、過去20年間のデンマーク国内の料理教室の中でもっともすぐれた成績だった。
ボリビアに誕生した、スラム出身の若者が働くレストラン「Gustu」
メルティングポット財団は、とあるデンマークのNGOが活動していた縁で、南米のボリビアでも食を通じた社会変革活動をスタートする。クラウス氏は、ボリビアという地を選んだ理由について、こう語る。
「南米には、まだ開拓されていない素晴らしい生物多様性があった。生物多様性は、素晴らしい食文化を生み出すうえでの前提条件だ。また、ボリビアは8つの地域と36もの異なる原住民で構成されていて、ボリビア人として一つになれるような誇りを持てる何かをずっと探していたんだ。そして、ボリビアにはペルーやメキシコにあるような優れた食文化もなかった。これらの要因が重なって、ボリビアは自分たちの活動場所としてよいかもしれないと考えたんだ。」
「そこで、僕たちは標高3,000メートルある首都のラパスで廃ビルを借り、シェフのKamillaと一緒にレストランの建設をはじめたんだ。そしてそこでスラム出身の50人の若者を雇い、現代のボリビア料理とはどんなものであるべきかについて匂いから素材、メニューの見た目にいたるまで探求を始めた。それはとても細い線の上を歩くような感じだった。とても貧しい都市で富裕層に向けたダイニングを提供するということに賛否両論もあったしね。」
そうして2012年4月にオープンしたレストラン「Gustu」は瞬く間に評判を集め、2014年には南米のベストレストラン50で32位に選出され、2017年にはさらに高い評価を得て14位に選ばれた。設立からたった数年で、南米を代表するレストランの称号を獲得したのだ。
「奇跡が起こったんだ。Gustuはソーシャルプロジェクトで、他のレストランはメキシコ人が運営する一般的な商業レストランだ。そしてKamillaは2016年には南米のベストシニアシェフに選ばれた。NGOは、食を通じて教育や雇用創出の機会が生まれたことに感銘を受けていた。このプロジェクトのインパクトは多くのホテルやレストランに波及し、観光客も感動していたよ。」
その後、クラウス氏はさらに活動を広げてスラムに料理教室をつくり、6か月で3,700人もの子供たちに料理を教えた。そのうち800人がボリビアのレストラン産業で職を得ているという。ボリビアでも、デンマークで起こったことと同じように、一つのレストランやスクールから始まった革命が、そこでスキルを身につけた人々が媒介となって多くのレストランへと広がり、着実に食文化を変革しているのだ。そしてその過程で多くの雇用が生まれ、貧困問題解決の一助にもなっている。
料理を通じてブルックリンの若者を非行から救う
いま、クラウス氏はニューヨークへと活動の幅を広げている。2016年6月にはニューヨーク、マンハッタンの玄関でもあるグランド・セントラル駅に北欧グルメが楽しめるGreat Northern Food Hallと、レストラン「Agern」をオープンした。ここでも新北欧料理マニフェストに沿って、北欧料理をニューヨークに持ってくるというコンセプトを持ちつつも、素材は多くが地元のものを利用している。
また、メルティングポット財団では、2017年11月にニューヨーク、ブルックリンの中でも特に低所得者層が多く治安も悪いブラウンズビルにThe Brownsville Community Culinary Center(ブラウンズビル・コミュニティ・料理センター)をオープンし、非行や犯罪から若者を救うための料理教室などのソーシャルプロジェクトを展開している。
編集後記
少年時代の貧しい食生活を原体験に、食の豊かさと人生の豊かさの関係に気づき、デンマークの文化を「食」から変えていこうと決意する。そして、食が持つ力を自らの手で証明すると、次はその力を使ってより多くの人々を救おうと、デンマークから世界へと飛び出す。
大きな成功を手にしてもそこに安住することなく常に前進し続けるクラウス氏だが、いつもその胸の内にあるのは、心の父から授かった「幸せとは、自分の人生で何がやりたいのかを知ること。そして、自分の心に従う勇気を持つことだよ。」という言葉だ。
どういう世の中にしたいのかも、何が幸せなのかも、答えを持っているのは自分だけ。だから、まずは自分の心の声をしっかりと聞くことが大事なのだ。そして、その声が聞こえたら、あとは勇気を出して一歩を踏み出すだけ。すると、同じ思いを持つ仲間が自然と現れて、夢だったはずの理想の未来が少しずつ現実へと近づいていく。
忙しい毎日に流されて自分が何をやりたいのかが分からなくなってしまっている人は、一度時計の針を止めて、フォルケフォイスコーレに行けばよい。すでにやりたいことが見つかっている人は、クラウス氏が言うように、はじめは小さくてもいいから一歩を踏み出してみればよい。
クラウス氏のストーリーには、誰もがすぐに実践できる、自分の人生、そしてその先にある社会を豊かにするためのヒントが詰まっていた。
【関連ページ】フォルケホイスコーレとは・意味