【イベントレポ】ようこそ、多元世界の入り口へ。水野大二郎先生と考える、変革のためのデザインのあり方

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複雑化する社会課題や、加速する気候変動、解決の見えない政治問題……。私たちの世界は、複雑に絡み合う「厄介な問題」で溢れている。そうしたあらゆる問題の根本は、私たちの社会や経済をつかさどるシステムそのもの──西洋・資本主義偏重の世界観にあるのではないか。そうした問いの中でIDEAS FOR GOOD編集部がたどり着いたのは「多元世界」という概念であった。

「多元世界」とは、「人間と非人間」「自然と文化」「西洋と非西洋」といった二分法から出発する一元的な世界観の先、もしくはそれが生まれるずっと前から存在した、文化や価値観、そして物事を見る“レンズ”の多様さを慈しむ世界観だ。

IDEAS FOR GOODでは、この多元世界につながる道筋を探求するため、2023年6月から2024年3月にかけて、特集「多元世界をめぐる(Discover the Pluriverse)」を実施。特集では、デザイン人類学の専門家やトランジションデザインの提唱者など、二元論を超越した視点を持つ専門家や実践者に話を聞き、私たちを取り巻くあらゆるものの関係性を再考する新たな眼差しを探った。

そんな特集の総まとめとして、2024年5月10日、デザイン研究者・リサーチャーの水野大二郎先生を招いて、多元世界を理解するためのカギとなるデザインや概念、その役割について考えるイベントを開催した。

水野先生は、スペキュラティブデザインをはじめとする未来志向型デザインの実践、ファッション分野でのサーキュラーデザインの実践などに取り組むデザイン研究に携わり、「多元世界」という言葉をデザイン文脈で広く知らしめた書籍『多元世界に向けたデザイン(著 アルトゥーロ・エスコバル)』の翻訳版を監修している。本記事にて、イベントの様子をお届けする。

話者プロフィール:水野 大二郎(デザイン研究者・リサーチャー)

水野大二郎先生1979年東京生まれ。2008年Royal College of Art ファッションデザイン博士課程後期修了、芸術博士(ファッションデザイン)。2012年慶応義塾大学環境情報学部に着任、2015年から同学部准教授。デザインと社会の関係性を批評的に考察し架橋する多様なプロジェクトの企画・運営に携わる。蘆田裕史とファッション批評誌『vanitas』の共同責任編集をはじめ、共著書に『x-DESIGN』、『Fabに何が可能か』、『インクルーシブデザイン』、『リアル・アノニマスデザイン』、『fashion design for living』『クリティカルデザインとはなにか』、『サーキュラーデザイン』など多数。2019年から京都工芸繊維大学KYOTO design lab特任教授、2022年から京都工芸繊維大学未来デザイン・工学機構教授、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特別招聘教授(兼任)。

多元世界とは何か

第一部では、編集部から特集記事について紹介しつつ、多元世界という考え方について再考した。

これまでの社会において中心的な役割を担ってきた、西洋(欧米)中心主義や、植民地主義、資本主義、科学中心主義、男性中心主義、人間中心主義といった価値観。これらだけではなく、同じように多数存在し、つながり、関わりあっている別の世界のあり方にも目を向けていく姿勢が、「多元世界」の意味するところだと捉えて特集をおこなってきた。

編集部が特集を組む中で、キーワードとして立ち上がってきたのが以下のような分野だ。

ここから3つの概念について取り上げ、特集での取材をもとにそれぞれのアプローチについて共有した。

トランジション・デザイン

トランジション・デザインという言葉を提唱した研究者の一人、キャメロン・トンキンワイズ氏を取材した。これは2010年初頭にアメリカ・カーネギーメロン大学で誕生した概念だ。地球規模の巨大かつ複雑な課題に対して、その根本のシステムから、ありたい方向へとデザインし直そうとする学際的な研究がベースとなっている。

この概念においては、人間が人間のためにデザインした世界を、Built World(ビルト・ワールド)と呼ぶ。これには通信やインフラ、建物などが含まれる。一方、動植物など自然の世界観のことを、Natural World(ナチュラル・ワールド)と言う。これら2つの架け橋となるのが、3つのデザインのうちの一つが、トランジション・デザインなのだ。

また、「厄介な問題(Wicked Problem)」という視点が重要とされる。現実の課題の裏には、他分野を含めた複数の問題が絡み合っており、既存のシステムや価値観のまま取り組もうとすると、より複雑化してしまう事象を指す。この「厄介な問題」を解決するには、目の前に見えている課題の解決ではなく、全く違う未来を描くこと、つまりシステム自体の再構築が必要であると捉えているのだ。

トンキンワイズ氏は、トランジション・デザインが方法論やツールではなく、「厄介な問題」を解決する“視点の集まり”であると強調している。

トランジションデザイン提唱者に聞く、社会の「厄介な問題」のほぐし方【多元世界をめぐる】

フェミニスト・シティ

『フェミニスト・シティ』著者であるレスリー・カーン氏にも取材を行った。フェミニスト・シティとは、都市空間を通じてジェンダー平等を促進するアプローチのことだ。

この概念は、近代都市が男性を中心として作られていることを課題として捉える。例えば、多くの場合、男性は家と職場の往復が主な移動パターンである一方、女性は子どもの送迎や買い物のために短距離を頻繁に移動する複雑な移動パターンが多い。しかし、都市は男性の移動パターンを前提に作られることが多いそうだ。

こうした現状に対しカーン氏は、都市があらゆるジェンダーに向けて作られる必要性があると訴えている。特に重視しているのが「インターセクショナリティ」だ。階級や人種、性自認、年齢など個人が持つ複数のアイデンティティが組み合わさって生じる差別の現状に目を向け、マイノリティの中でもさらに周辺化される人がいることを捉えようとする概念である。

カーン氏は、都市のデザインにおいてこれらの視点が生かされ、市民が互いにケアし合うようなやり取りを生むことを重視しているのだ。

「誰もが住みやすいまち」のために、まず女性の声を聞く。『フェミニスト・シティ』著者を尋ねて【多元世界をめぐる】

脱植民地化

ロンドンを拠点とする建築環境の専門家、ナビル・アルキナニ氏からは、脱植民地化に関するプロジェクト「Decolonising Wembley(デコロナイジング・ウェンブリー)」について話を聞いた。脱植民地化とは、植民地化されていた国が宗主国から独立していく過程や、過去の植民地支配による社会・文化・心理的な影響から脱却していくことを示している。

ナビル氏は、ロンドン・ウェンブリー地区の開発に携わる中、「カナダ・ガーデン」と呼ばれるエリアがあることに疑問を抱いた。調べてみると、大英帝国博覧会においてカナダパビリオンが置かれていた場所だったという。この他にも、大英帝国の権威を誇示するような地域名が残っていることを発見した。

この気づきからナビル氏は「Decolonising Wembley」を立ち上げ、ウェンブリー地区の開発に関わるデベロッパーに土地の命名規則の調査や帝国主義的な行事の是正を求める活動をおこなっている。他にも、奴隷商人の銅像が移動・撤去されるなど、ロンドン各地で植民地主義の歴史の捉え方について見直す動きが強まっている。

ナビル氏は、「前時代の反省をするためにも、特定の記憶をすべて消すのではなく、その記憶が正しく美化されることなく残るようにする必要がある」と強調していた。

ロンドンのまちを“脱植民地化する”アーバニスト。地名に込められた「支配の歴史」が紐解かれるまで【多元世界をめぐる】

以上の他にも、祖先や動植物を含むあらゆるいのちへのケアを意味するディープケアや、行為者性を伴う個の関係性から物事を捉える姿勢を示すマルチスピーシーズなどの概念を、イベント内で紹介した。

これらが多元世界の一部を切り取った側面であるとするならば、「多元世界」という概念そのものを大きく捉えるとどんな表情が見えてくるのか。そして、社会において実践していく際には「多元世界」という視点をどのように生かすことができるのか。そんなマクロな視点と具体的な事例について、水野先生に話を聞いた。

多元世界とは何か。カギとなるデザイン概念からヒントになる事例まで

『多元世界に向けたデザイン』において大きな基盤の一つとなっているのが、先述のトランジション・デザインだという。水野先生は、これらに加えて「6つの観点」が重要であると説明する。

それが、①クリティカル・デザイン・スタディーズ ②デザイン思考 ③存在論的デザイン ④デフューチャリング/フューチャリング ⑤OWW(一つの世界の世界) ⑥自治=自律的デザイン、だ。

クリティカル・デザイン・スタディーズ

多くのデザインが使用される問題解決の目的ではなく、問題提起のために起用されるデザインが「クリティカル・デザイン」だという。一例は、「今日における究極の快適さは電磁波から逃れることである」というメッセージを表現した、フェラデーチェアだ。

「これは、箱の中には電磁波が来ない仕組みになっている椅子です。スマホが使えないこの空間が現代におけるリラックスであると、皮肉を込めて伝えていますね。この椅子がもたらす疑似的な機能性を考えた時、ただ座りやすさを求めるのではない、デザインによる問題提起の役割が見えてくるわけです」

そんなデザインを通したメッセージは他にも、いわゆる「リケジョ」を扱ったレゴを発売してすぐに美術館に展示したり、環境保護団体エクスティンクション・リベリオンが用いているバナーを展示したりすることで問いを投げかけた事例が挙げられるという。

エクスティンクション・リベリオンのバナー展示の写真

イギリスのYoung V&A Museumで展示されている、環境保護団体エクスティンクション・リベリオンが活動に使用するツール

「日本でデザインと言うと、人間生活に寄与する優れた人工物と認識されることが多いと思います。しかし、寄与するとはどういうことかを問うような批判的デザインも世界各地で存在しているのです」

エスコバルもこの概念を重視しており、規範的な問いに立ち戻り、社会変革の原動力としてのデザインに期待を込めているのだ。

デザイン思考

エスコバルはデザイン思考について、次のように述べる。

デザイン思考がデザインの専門職以外で大きな人気を博したのは、まさに『厄介』な問題に対処するための現実的あるいは潜在的要因と、変化の担い手としてのデザインの認識に基づく。これはデザインの機能的・記号論的な側面の重視から、経験と意味をめぐる問いへの転向をもたらす。

つまり、デザイン思考はある商品の機能や形状の観点から、UX(ユーザーエクスペリエンス)にみるような体験や経験という観点へ変化していることを示唆するという。多元世界においても、ユーザー視点や利用者を人間として理解してから人工物を作ることを肯定的に捉えているそうだ。

「単純に言ってしまえば、人間不在で開発をすること、特に途方もないスケールでジャングルをプランテーション化するような開発(の阻止)に対して、デザイン思考が有効であると考えられています。これは、著者のエスコバルが中南米の出身であることが影響しています」

一方、デザイン思考そのものに対しては、さまざまな課題が指摘されている。デザイン思考が誰でもすぐ使えるようパッケージ化されたことで組織文化・能力が軽視されやすいことや、客観的かつ無政治的なアプローチとして「神話」化されうること、短期イベントが増えアイデアの実装まで踏み込めないこと、などが挙げられた。

そのため水野先生によると、本書の内容を超えて私たちが注視すべき点は、「これをすれば誰でも成功する」という直線的な思考に陥らないことだという。

「利害関係を共にしない人たちが協働するなどの点は賞賛されるべきポイントですが、それをパッケージ化していくことは問題視するべきだと思います」

存在論的デザイン

存在論的デザインとは、私たちが周囲の世界をデザインする一方で、その世界が私たち自身をデザインし返しているという考え方だ。これを具体化するため、水野先生はスマートフォンを例に取り上げた。

スマホなどのデジタル機器には、リチウムバッテリーが必要とされる。これらは、南米チリやボリビアなどのウユニ塩湖周辺の地域から採掘されており、現地では大規模な開発がおこなわれている。これに伴い、先住民と政府、企業の間で衝突が起きているという。

鉱物を採掘する様子。大きな田んぼが広がっているように見える

Image via Shutterstock

こうした現実を課題視し、リサイクル素材や修理のしやすいモジュール式などを取り入れた環境負荷の低いスマートフォンが登場。しかし、そうした製品はバッテリーの持続性や機能性が大手メーカーに劣っていたという。結果として多くのユーザーは、意識的あるいは無意識のうちに、毎年新機種を販売するようなトレンドに乗ってしまうそうだ。

「こうして、良かれと思ってデザインしたものが意図に反する結果になり、先住民や気候変動をめぐる問題が起こるのです。こうして私たちがデザインしたものによって、我々がデザインし返されているというのは、世界的にさまざまな側面で見えてくるでしょう」

環境問題や社会問題が深刻化する中で、これまで多くの人に見えていなかった、もしくは見て見ぬふりをしてきた搾取の存在が明らかになってきた。この課題について認識することを求めているのが、存在論的デザインであるのだ。

デフューチャリング/フューチャリング

前項で扱った存在論的デザインの「デザインし、デザインし返される」という循環が、負のループになっている場合をデフューチャリング、良い循環になっている場合をフューチャリングという。

「日本の分かりやすい事例としては、スギ花粉はこれに当てはめて考えられそうです。戦中・戦後の物資不足で、木を植える計画が政策として出されました。このとき、スギが好んで植えられたと。その木が林業の衰退や安い木材の輸入によって有効に使いこなせないまま、花粉を撒き散らしている。これは自分で自分の首を絞めている、ともいえるわけですよね」

一方で、この現状を回復させていこうとする動きも見られる。一例が、京都北部の京北という地域で活動する「Fab Village Keihoku(FVK)」だ。京北は、かつて木材を通じて神社仏閣や茶道を支えてきた。FVKは、閉じられた空間における自助能力を超えない範囲で、循環のエコシステムを再構築しようとしているそうだ。

エスコバルは、デフューチャリングの要因について、一風変わったところに目をつけたそうだ。それが、家父長制文化である。エスコバルはそれを「競争、戦争、階層、権力、成長、子孫繁栄、他者支配、資源収奪を重視する行動や感情を特徴とし、真理の名のもとにそのすべてを合理的に正当化するもの」と定義し、それとは反対に、包摂や参加、協働などを特徴とする家母長制文化を重視したという。

「エスコバルは、必ずしも回帰主義的・懐古主義的な思考の再興を訴えているわけではありません。強い関係主義に支えられた、ネットワークの中で世界を認識し直しましょうというのが彼の基本的な姿勢です」

OWW(One World World:一つの世界の世界)

One World World(OWW:一つの世界の世界)は、一つの世界“しかない”世界という意味であり「帝国主義的な考えに則って西洋以外の思想を否定する考え方」だという。エスコバルはこの考え方を批判的に捉えた。

現在の社会で、OWWは往々にして立ち現れる。たとえば、東京の大都会に住んでいると、それが世界のすべてであるように見えてくる。水野先生は、これを実体験として学んでいた。

「僕は東京出身で、小さい頃『外を走る電車は田舎者が乗る電車だな』と思っていたんです。僕は地下鉄しか乗ったことがなかったので、地下鉄が外に出るのは終点だけ、つまり田舎だと思っていたのです。だから、山手線ですら田舎者の電車だと思っていました。これはとんでもない勘違いでした(笑)」

つまり「都市的で近代的な暮らし」こそが至高だという発想から脱して、たくさんの世界が存在することの認識が重要なのだ。日本で、そのような認識に基づいて活動する事例の1つは、福岡県八女市の地域文化商社「うなぎの寝床」だという。同社では「もの」と「ひと」を介して地域文化を捉え直し、その継承と収束を目指している。それぞれの地域を一様とせず、独自の文脈や文化を見出す姿勢において、OWWではない捉え方だと言えるのだろう。トヨタ自動車のスマートシティ「Woven City」開発において地鎮祭(※)執り行われたことからもわかるように、近代的なものを取り入れると同時に土着の文化も大事にする国に、私たちは住んでいるのだ。

※ 地鎮祭:土木工事や建築工事の起工にあたって、工事の無事を祈願するための儀式

自治=自律的デザイン

「すべての共同体は自らをデザインする」と、エスコバルは記す。これは、脱成長などを目指すグローバルノース型と、ポスト開発などを推進するグローバルサウス型において異なることが指摘されるとのこと。

そして特に重要であるのは「コミュニティが自らデザインする」という点であるという。

「アメリカ・ニューヨークで、コロナ禍に『デザインド・バイ・コミュニティ・フェローシップ』という企画が走っていました。面白いのは、超ローカルな解決策を“市民に”求めるという点。しかもニューヨーク市が選出者に5,000〜2万ドルの助成金を出していました。つまり『問題当事者が行政側に入って、超ローカルな問題に立ち向かっていくための支援策』を行政側が打ち出しているんです」

こうした各地域の文脈に取り込まれた特有の取り組みこそが、多元的な世界の一部であり、すでに世界で表出し始めているそうだ。

「問いを立て直す」ことの重要性

多元世界の実現には、多様な生命の相互依存を尊重する、かつ共同体を育む考え方に基づいて、さまざまな場所や領域に根ざした世界観を尊重することが必要である。

従来のような直線的で技術開発を主眼としたデザインは、多くの存在を取り残してきた。この反省から、周縁化されてきた人々を包摂するデザインが登場したという。さらにそのデザインは、政治面で先鋭化され、みんなで共に考えるための参加型デザインへと発達。それが複雑化し、人々がそれぞれの土地に根ざした生活を、自らの手でつくることを可能にするためのデザインが多元世界への移行において立ち上がってきているという。

このように「デザインは進化を重ねてきた」ことを、私たちはより強く認識することが重要であるそうだ。

「トリプルボトムラインと呼ばれていた、経済・社会・環境の3つはイコールの存在ではなく、環境だけ異様に大きな存在であると再認識され始めました。この環境という存在を基盤として考えようとしたのがウェディングケーキ型でSDGsを捉え直す動きです。

そんな中で、『人間が環境を守る』ではなくて『人間は環境の一部である』との認識も出てきています。存在論的に考えると、人間の行いによって悪くなることもあれば逆に良くなることもあるという生態系や相互依存性を認識することが非常に重要であるわけです」

こうして人間の活動を生物圏の一部として捉えると、ただ専門家に任せきりの社会システムでは立ち行かなくなると、水野先生は語る。

「個人が所有する状態だけではなく、コモンズの回復として『共有』や、専門家じゃない人もあまねく全ての人に公共的な問題に携わってもらう意味での『普請(ふしん)』も重要になってきます」

したがって、現在社会に必要であるのは「個人が購入する・作るという独立したモノや空間の価値の最大化」から「再生と共有に基づく相互に依存したインフラや生態系の価値の最大化」への変化であるという。これは同時に、専門家による産業無批判の進歩を謳う単元的な開発のためのデザインではなく、共同体による産業批判を謳う多元的な生命のためのデザインが求められていることでもあるというのだ。

これらが水野先生による本書の見解であり、多元世界に対するデザインを理解する姿勢だ。

水野大二郎先生×編集部 クロストーク

第二部は、IDEAS FOR GOOD編集部と水野先生によるクロストークが行われた。ここまで概念や定義として理解を深めた多元世界の考え方について、実際に社会や日常に適用する方法や、その「複雑さ」や「曖昧さ」との向き合い方、多元的な世界に向かうための問いの立て方などを議論した。

Q. 多元世界という日本語を、よりわかりやすく翻訳するとしたらどのように説明されますか?

わかりやすく言うならば「色んな世界が収まっている世界」です。西洋の近代というモデルの世界とは違う世界であると言うことが重要だと思います。

また、これを「多文化主義(multi-culturalism)と似ている」と思う人もいるかもしれませんが、それは1つの国家の中に複数の文化が共存して反映・尊重されている状態です。多元世界は、バラバラにある世界を束ねている、メタな世界のことだと思います。

でもこのメタな世界は、もはや認知できないよく分からないものになっているんです。個人はある特定の世界にいるから、その世界を認識できているわけですよね。でも、その世界を作っているのは自分で、その世界によって個人はデザインし返されています。その上にさらに多数の世界があると言われても、想像できない遠く離れた向こう側になってしまう気がしています。

つまり、多元世界をややこしくしている要素は2つあるんですね。(多元世界に向けたデザインにおいて)「存在論的デザインと言われると自分を客観的に認識することができなくなるというもどかしさが生まれること」と、「たくさんの世界が存在している世界と表現した時に、世界の間の認識ができないこと」です。

Q. そんな「色んな世界」の一部として、日本の禅やレンマ的な考え方も存在論的デザインに近い文脈を持つのではないかと思います。日本で多元世界に向けたデザインが発展していくとしたら、どのような可能性があるのでしょう?

最近、オーストラリアの方と「一周回って日本は面白いね」と話していました。「日本社会は、片やものすごい技術開発をしていて、片や限界集落のように見放された空間もあるけれど、ぎりぎり何とか持ち堪えている地域もある。そこでは、無価値とされていた空き家や空き地を住民たちの自治によって新しいモデルに作り替えているじゃないか」と言われたんです。

日本の人口減少は、地域の衰退が重なって歯止めが効かないレベルになっているけれど、そうした地域に歴史的資源や文化的なものがあると。そんな「ねじれた状態」として日本を見た時に、「技術開発のロジックだけじゃなくて地域再興のロジックもある国ですよね」と言われました。確かに、地域再興のほうが色んな可能性が出てきたのです。

より多くの人に関係していることとして考えると、少子高齢化による地域課題や都市の一元集中に対する新しいアクションが、見放された場所から起きつつあることは非常に面白いなと感じています。

Q. 多元世界を語る上で「複雑さ」はキーワードになってくるかと思います。 一方で、広く実践に移していくには分かり易さも求められます。「複雑さ」と向き合いながら多元世界を広めるには、どうバランスを取り、個人・企業・行政はどう意思決定の軸を定めるべきでしょうか。

例えば行政で考えると、講義部分でお話ししたニューヨークの「デザインド・バイ・コミュニティ・フェローシップ」などは、実践例として面白いと思います。

行政においては、ただアプリやカードを作ることだけではなく「そもそも誰が行政政策を計画し、誰が執行するべきか」もデザインの対象になると思います。問題を解決できる人が目の前にいるなら、その人にお金を払って、一時的に行政側になってもらえば良いじゃないかと。

そんな意味で、(地域の)中にいる人が力を発揮できる状況を地方自治体がいかにデザインできるかは注目したいポイントになります。

なので、個人と自治体が密接に関係できるのが地方の魅力だと思うんです。地域活動している人と役場の人が、飯食いながら「次どうする」みたいな話をしていたりします。地方では今、すごく先進的なことが増えてきているわけです。

中央省庁に限定して行政のデザインを考えるのではなくて、地域に根ざした活動を生み出す協力関係のエコシステムをいかにデザインするかが、これから大切になるのではないかと思います。

Q. 個人は多元世界を頭の片隅に置いてその可能性を生かしつつ活動する1人であり、現実的には様々な人がその場合ごとに場所ごとに固有の世界観を具体的な形にしていく余地を残すことが大切なのかなと感じました。一人ひとりの中での多元世界の思考だけでなく、面で見た時に結果的に多元世界が様々に思考されることが大切なのではと思いました。

西洋近代ロジックが強大な大陸であるとしたら、多元世界は島が群島化していき一つのネットワークになろうとしているんです。これら両方を矛盾なく認識することが、コメントにある「多元世界を頭の片隅に置いて」の意味するところだと思います。

だから「向こうに大きな煌びやかな大陸が見えるけど、こっちは小さい島だけどそれなりに楽しくて、その島が連なって大きな活動になってきたぞ」という認識が大切だろうと思います。

つまり、「高度に複数に知的になる」ということです。でも、一個の世界にはまって他の世界を認識するってすごく難しい。だからこそ、「複数に知的になる」ことができるデザイナーや実践者がうまく増えることを期待したいです。その手がかりとして『多元世界に向けたデザイン』があり、多元世界というキーワードが認識されると良いなと思います。

編集後期

多元世界という考え方について、すべてを理解することは難しいだろう。そして、理解し切ったつもりになってはいけないのだろう。とても不安定な感覚がありつつも、それを構成する多様なデザインのアプローチや、具体的な実践例の一部を知ると、そのぼやけた輪郭にも心地よさを感じ始めている。

対照的に「デザイン」という言葉は、クリエイティブなアートやそれを手掛けるデザイナーのことに閉じて連想されやすかった。しかし今、多元世界を模索する中で必要であるのは、職業や産業的なものとしてのデザインではなく、その和訳の一つである「設計する・考案する」に立ち返った取り組みではないだろうか。

日々の暮らし方を設計し直してみることも、明日の働き方を考え直してみることも、デザインかもしれない。多元世界に向けた対話を生むならば、あなた個人、所属する組織や地域は、どんなデザイナーになることができるだろうか。

Edited by Natsuki

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