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エスノ・フューチャリズムとは・意味

エスノ・フューチャリズム

エスノ・フューチャリズムとは?

エスノ・フューチャリズム(Ethno-Futurism)とは、土着的・先史的を意味する「エスノ」と、先進的な未来主義を意味する「フューチャリズム」を掛け合わせた言葉。文化史における過渡期に、グローバル化を背景として、人々が自らの文化的なルーツに取り組む過程であると考えられている。

具体的には、1990年代に崩壊したソビエト社会主義共和国連邦(旧ソ連)で起きた、国際的な芸術運動がその代表だ。日本語では、「民族未来主義」とも呼ばれる。以降、エスノ・フューチャリズムのことを民族未来主義と述べることとする。

民族未来主義が登場した当時、旧ソ連では、非ロシア諸民族を同化(=非ロシア語教育の制限およびロシア語教育の導入、キリル文字の強制、宗教の弾圧など)する公的政策が進められていた。

そんな中、民族未来主義運動に参加した人々は、諸民族がアイデンティティの基盤となる文化を認識し、あらゆる面で「未来における民族の存続」を実現する活動を提唱していくことを決意する。

民族未来主義の歴史

民族未来主義の形成には3つの段階がある。第1段階は1980年代後半から1994年まで、第2段階は1998年から2006年まで、そして第3段階は2005年から2006年ごろまでだ。

ここでは、各段階の流れをさらっていく。

第1段階:エストニアとロシアの各地域で運動が活発化

まず民族未来主義という新しいイデオロギー(政治思想・社会思想)は、1980年代のエストニア共和国の都市タルトゥで登場した。1989年、エストニアの作家カール・マトリーネ・シニャルヴが「エスノ・フューチャリズム」という言葉を、ウラル語族を代表するフィン・ウゴル族の芸術文化における革新的な傾向を表す言葉として初めて使用した。

この用語は南エストニア地域にいた、体制に従わない人々の間で使われるようになる。実際、民族未来主義は、タルトゥの若い詩人達の間で南エストニアの民俗文化や言語的伝統への周縁的でエリート主義(=社会の中で優秀とされる人物や集団を重視する思想や傾向)的な現象として生まれた。民族未来主義は「ソフトな」反グローバリゼーションのトレンドでもあった。

民族未来主義を掲げた若い思想家たちは、講演や映画、展示、歌、会議などを通じて、若いフィン・ウゴル族の芸術家や作家に民族未来主義を紹介することを目的に、1994年5月5日から9日まで、フィン・ウゴル族の若手アーティスト、作家、音楽家による「第1回民族未来主義会議」をタルトゥにて開催した。このイベントにはウドムルト人、コミ人、マリ人、カレリア人、リヴ人、エルジア人、サーミ人、ハンガリー人、ヴィルスト人、セト人など、全部で100人ほどのゲストがタルトゥに招待された。

この会議では「民族未来主義のマニフェスト(以下、宣言)」が発表され、「創造力を発揮する民族未来主義は、イデオロギーではなく、生き残るための方法であり、生存様式である」とある。宣言には民族未来主義の理念についても書かれている。

「民族未来主義の理念は、文化の両極をつなぐこと、つまり土着とコスモポリタンや都市を結びつけることである。この2つが互いに出会う地点で、民族未来主義の火花が生まれる。この接触から生まれる火花は、自然な形で文化を活性化させる力となる」

時間の経過とともに、エストニアでの運動はより立派なものになる。しかし2002年には、エストニア政府関係者が「エストニア文化の中で民族未来主義の概念が曖昧になっている」と指摘。2010年には、同関係者が「民族未来主義は全く存在しない」とも述べている。

第2段階:ロシア連邦に属する「ウドムルト共和国」に運動が広がる

エストニアで誕生した民族未来主義は、国境を越えて他の国々にも広まり、新たな特徴や解釈を獲得していく。

タルトゥで行われた民族未来主義最初の会議が開かれる前から、ロシアの各共和国では芸術活動が回復し始めていた。ロシア国内のプロの芸術家たちは社会主義的写実主義を振り払い、自国文化の原点に立ち返りつつあった。1990年にはフィン・ウゴル族の若手芸術家による美術展が開催される。多くの研究者によると、これがロシアで最初の民族未来主義の展覧会であり、出展した芸術家の絵画やデッサンには、伝統文化へのルーツへの関心が表れていたとされる。

ロシアにおける民族未来主義運動において、美術展・展覧会や文化的イベントなどのフェスティバルは極めて重要な位置を占める。芸術は民族未来主義者の主要な自己表現となり、フェスティバルはそれを発表する場として最適だった。この段階で、民族未来主義の運動は芸術運動の形をとることになる。

民族未来主義はウドムルト共和国にも伝わる。当時のウドムルト共和国(旧ソ連時代はウドムルト自治ソビエト社会主義共和国)の若い芸術家や作家、ジャーナリスト、科学者たちは思想的にも経済的にも支援を必要とする変わりゆく世界の中で、何か新しいものを作り出そうと考えていた。

彼らは非公式な創作グループ「オドマー(Odomaa)」を立ち上げる。オドマーとはウドムルト語で「原住民の土地」を表す。

グローバル化の中で民族と民俗文化を維持すること、発展させることを目標としたオドマーは1998年、ウドムルト共和国国家政策省の支援を受け、「エスノ・フューチャー・フェスティバル」という大規模なプロジェクトを考案する。このプロジェクトの主旨は、自分達のアイデンティティの基礎となる自文化についての知識を深めることに寄与すること、民族の未来を保証するような活動を支援し、実行する機会を提供することだった。1998年から2006年にかけて、11の国際的な民族未来主義のフェスティバルを開催した。

そうしてウドムルト共和国は民族未来主義の象徴的な中心地となり、現代まで続くフィン・ウゴル語系民族への帰属意識を高める繋がりを持った場所となっている。

第3段階:運動が多様化

ウドムルト共和国で考案された大規模なプロジェクトが完了した後、民族未来主義運動はいくつかの再編成が行われ、多様化した。

2005年以来、世界規模の民族未来主義フェスティバルのもう一つの中心はロシアの都市ペルミにある。2006年から開催されているペルミ地方の文化・青少年事業推進組織KAMWA主催の国際フェスティバル「KAMWA」は、音楽、演劇、装飾美術、応用美術、ファッションなど、あらゆる芸術分野のプログラムが組み込まれている。

ペルミのフェスティバルは財政的にも政治的にも文化的にも最高レベルの運営が行われている。「KAMWA」発足から5年もの間に、ロシアの40の地域から180を超えるプロジェクトが参加したうえ、フェスティバルの主催者はイギリス、フランス、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、ドイツ、インドから、ワールドミュージックのジャンルで活躍する音楽バンドを参加させることに成功している。

このことは、民族未来主義はフィン・ウゴル族やその地域に向けたクローズドな運動ではなく、すべての国や大陸の人々を結びつけることができる広範なものであることの証明となった。

なお「KAMWA」はYouTubeチャンネルを持っており、過去のフェスティバルの様子やアートプロジェクトに参加した芸術家の絵画作品をもとに制作された動画作品などが公開されている。

まとめ

20世紀後半にフィン・ウゴル語系民族の間で生まれた新しい思想としての民族未来主義は、国際的な現象に発展した。現在、ロシアの都市ペルミで開催されている国際フェスティバル「KAMWA」とウドムルト共和国で開催されている国際メガプロジェクト「エスノ・フューチャリスト・シンポジウム」が中心となり、参加者の地域は世界中に及ぶ。

今日では、ウドムルト共和国や近隣の地域、そしてロシアの多くの地域で、民族未来主義的な芸術は、ほとんどの展覧会や博物館、コンサートやパフォーマンスで「必須プログラム」になっている。

民族未来主義が国際的に共鳴した出来事には、2012年にアゼルバイジャン共和国の首都バクーで行われたユーロビジョン・ソング・コンテストで、ウドムルト共和国のおばあちゃんたちが演奏した「みんなのパーティー」という曲が、予選で2位になったことが挙げられる。

民族未来主義が国際的な発展を遂げる中で、民族未来主義の名を持ちながら、それと直接的な関係を持たない事実や現象も多く存在するようになったが、民族未来主義は、未来においても民族の多様性は保持されるという可能性を見出している。

【参照サイト】etHNo-fUtURisM as a NeW iDeoloGY
【参照サイト】Formation of Ethno-Futurism at the Turn of the XX-XXI Centuries
【参照サイト】Ethno-Futurism: Leaning on the Past, Working for the Future: Afterall
【参照サイト】Etnofutu
【参照サイト】KAMWA




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