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アパルトヘイトとは・意味

アパルトヘイト

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アパルトヘイトとは?

南アフリカ連邦および南アフリカ共和国において実施された、白人とそれ以外の人種間での人種隔離政策のこと。アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する。少数の白人の政治的・経済的特権を維持するため、黒人をはじめ非白人である人種の人たちの権利や自由を奪い、様々な制限を与えた。

アパルトヘイトが生まれた背景

17世紀半ばの大航海時代、オランダの東インド会社が喜望峰をインドやアジアへの航海の中継地点としたことで、オランダからの多くの移民が南アフリカに渡った。そして、1652年に東インド会社のヤン・ファン・リーベックがケープ植民地を設立したことをきっかけに、ヨーロッパ人の定住が始まることとなる。1806年にはイギリスがこの地域を支配下に置き、イギリスからの移民も増加。結果として、オランダ/イギリスからの移民間で対立が生まれるようになった。

19世紀に入り、南アフリカが金やダイヤモンドといった資源を豊富に有していることがわかると、これらを巡りオランダ系(アフリカーナー)とイギリス系の間で戦争が勃発。

結果は英国の勝利に終わり、支配層を形成するイギリス系に対しアフリカーナーの多くは経済的な弱者となり、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層が形成された。これら白人貧困層を救済し白人を保護することを目的に、1910年の南アフリカ連邦成立以来、さまざまな人種差別的立法が行われてきた。

そうした動きのなか、白人を保護し優遇することを目的として1911年に制定されたのが、「鉱山労働法」だ。これは金やダイヤモンドの鉱山で働く白人と黒人の職種区域や人数比を全国で統一し、白人労働者の暮らしを守るために制定されたもので、人種差別的な立法の先駆けとされる。その後も人種差別的な立法が次々と行われ、1948年に白人の農民や貧困層を支持基盤とする国民党が政権を握って以降、アパルトヘイトは本格的な制度として確立されることになった。

アパルトヘイトの仕組み

アパルトヘイトが実施されていた南アフリカでは人々を人種別に分類し、その分類に従った住所登録を課していた。主な分類は次の4種である。

  • 白人:オランダ系白人(アフリカーナー)やイギリス系白人などヨーロッパの人種
  • アジア人:アジア系の人々で、大多数はインドやパキスタン人
  • カラード:白人と原住民族や、当時オランダやイギリスの植民地であったインドネシアやマレーから連れて来られた人たちとの混血人種。ただし混血ではないケープマレーなども含まれた
  • アフリカ人(黒人):アフリカ原住民族、バントゥ系民族とも言われる

また、日本は南アフリカにとって重要な貿易相手国であったことから、日本人は「名誉白人」として扱われ、一部の制限が解除された。

南アフリカ全体の人口に占める割合は1980年の時点で、白人は15%で黒人が73%であるのに対し、その国土のわずか13%のホームランドと呼ばれた辺境で不毛の土地に黒人たちは追いやられた。

その他にも行われていた実質的な差別についていくつか紹介する。

  • レストランや交通機関、トイレなどの公共施設は白人とそれ以外の人種用に分離
  • 異人種間での恋愛や結婚の禁止
  • 16歳以上の黒人に対し出生地、部族、現住所、雇い主などが記載された証明書の所持の義務化
  • 黒人の参政権を否定し、黒人の代表者として白人を選出
  • 人種別に教育レベルや環境を策定
  • 職業や職種の制限と賃金の格差
  • 黒人の抗議・反対運動の禁止

法律によってヨーロッパ系の白人が政治的にも経済的にも常に優位な立場になるような仕組みを作り、黒人らが自立し力を持つことを阻止するために、白人による搾取の構造を作り上げていった。

アパルトヘイトが廃止されるまで

1950年代に入るとアフリカ民族会議(ANC)に所属するネルソン・マンデラなどを中心に反対運動が始まった。代表的なものに1960年にデモ隊と警察が衝突し多くの犠牲者を出したシャープビル虐殺事件や、1976年に約1万人の黒人の学生が抗議行動を起こしたソウェト蜂起などがある。

多くの国々がアパルトヘイトを非難していたものの、南アフリカの豊富な鉱物資源に依存していた西側諸国は、初期には積極的な対策を躊躇することがあった。しかし、その後国際社会からの圧力は増していく。国連総会は1952年以降アパルトヘイトに対する非難決議を毎年採択し続け、「人道に対する罪」と糾弾した。さらに国際社会は国交断絶や経済制裁、オリンピックへの参加を認めないなどの措置を取り、南アフリカは孤立化していった。

そうした中、1989年に就任したフレデリック・デクラーク大統領はこれまでの政府の方針を転換。1990年に収監されていたネルソン・マンデラを釈放し、翌1991年にはアパルトヘイト関連法を全廃するに至った。さらに1994年には、すべての人種が参加した初めての総選挙が行われ、アフリカ民族会議(ANC)が勝利し、初の黒人大統領としてネルソン・マンデラが就任した。彼は黒人と白人に加え、カラード(混血)、アジア系など、様々な人種と民族が共存する南アフリカをレインボーネーション(虹の国)と称し、新しく制定された国旗(レインボーフラッグ)にもその考え方が反映された。

アパルトヘイトが残したもの

アパルトヘイトの体制は廃止されるまでに約80年という長い年月を有した。しかし廃止後、劇的に環境が改善された訳ではなく、さまざまな格差是正や経済政策を掲げるも、整備の遅れや財源・人材不足などによって、実際には計画通り達成されていないものも多かった。そのため黒人による新政権への不満も高まり、失業率や社会犯罪もむしろ増えていった。

また、教育の格差は依然として続き、廃止後四半世紀以上経った今でも、貧困から抜け出せない層も多く残り、失業率も高いまま推移している。金、ダイヤモンド、レアメタルなど鉱業も盛んで、今やアフリカ諸国の中でもトップクラスの経済大国となっている南アフリカだが、その華やかな光の部分だけでなく、その裏にある影の部分にも目を向け続けなければならない。

現代におけるアパルトヘイト

アパルトヘイトはもともと南アフリカ共和国で生まれた言葉だが、現在では厳しい制度的差別や抑圧に対する言葉としても用いられている。2022年2月、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルはイスラエルのパレスチナ人に対する扱い(土地や財産の大規模な没収、強制移送、徹底的な移動制限、国籍と市民権の否定、国際法違反の殺害など)は「アパルトヘイト」だとし、人道に対する罪であるという報告書を公表した。

南アフリカのアパルトヘイト体制が廃止された今も、世界中には依然として制度的な差別が存在している。一日もはやく、すべての地域で人々が平等に扱われるよう国際社会が手を取り合うときがくることを願うばかりだ。

【参照サイト】外務省 | わかる!国際情勢 躍進する南アフリカ~途上国のリーダーとして
【参照サイト】国際連合広報センター | 人類の犯罪
【参照サイト】アフリカ連合日本政府代表部 | アフリカ徒然草
【参照サイト】朝日新聞デジタル |南アフリカのデクラーク元大統領死去 アパルトヘイト政策を廃止
【参照サイト】ダイヤモンド・オンライン | アパルトヘイトが長年放置された「残酷な理由」とは?
【参照サイト】アムネスティ日本 | 南アフリカ:教育から差別の遺産を消そう
【参照サイト】アムネスティ日本 AMNESTY | イスラエルによるパレスチナ人へのアパルトヘイト 残虐な支配体制と人道に対する罪

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